古代史を勉強すればするほど、文献としての「古事記」と「日本書紀」の重要性を認識させられます。
改めて、古事記と日本書紀の違いに注目してみました。
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古事記と日本書紀との違いはどこにあるのかという点を簡略に整理していえば、古事記の記述は過去に向いており、推古天皇で下巻を閉じるという構成からみると、その成立の真偽は別として、「天皇記・国記」を復元するという歴史認識が濃厚に認められる。そしてそこには、律令的な世界に対立する反国家的、反王権的な世界観が浮き上がってくる。
それに対して日本書紀は、律令国家にとってのあるべき「歴史」を叙述するという歴史認識と編纂意識とを明確にもっているとみなければならない。
そうした古事記と日本書紀の性格の違いから考えれば、8世紀における律令国家の歴史を体現する日本書紀にとって、古事記的な「出雲」は語る必要のない世界になってしまったのである。(略)
一方、7世紀以前の王権を志向する古事記にとって、出雲という世界は強大な対立者として存在した。そして、その出雲を打ち倒すことによって王権が確立したという枠組みが、古事記の語り伝えた神話世界にはどうしても必要だったのである。
「日本」を連呼し続ける日本書紀の神話が構想する世界観と、「倭」であり続ける古事記の神話が構想する世界観とではその歴史認識に大きな隔たりがあるといわねばならない。
三浦佑之「古事記を読む」
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筆者は「棄てられた出雲(神話)」という視点から、古事記と日本書紀の違いを読み解き、7世紀以前と8世紀以降に分けて、日本における支配階級の世界観(歴史観)の断層を披瀝しています。
壬申の乱が672年。それ以降712年の完成まで書き継がれた古事記は、あきらかに天武天皇の世界観を反映していたと思われます。それは、絶対的存在としての天皇を支持し、実質的に力を持つものが天皇として君臨するという、多分に大陸的色彩の強い思想だと思われます。 |
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