>・・・外向欠乏(社会探索)が、分かり難い構造認識よりも、先ずは具象的で分かり易い人に向かうのは、当然で、これは正常である。そしてそこでも、その人の言葉ではなく、行間にある潜在思念(その人が何を感じ、何をしているか、あるいは熱意や自信や感性、一言で云えば“輝き”)に注目している。
>要するに、人こそ外向基調の最大の対象であり、かつ、共認機能に先行する最高価値である。何よりもまず人という、この人欠乏こそ本源収束の基軸を成すもの(あるいは真の民主主義の基礎を成すもの)であり、集客欠乏やひいては演場社会の基礎を成すものである。
90年代に入って顕著であるが、小泉フィバーから始まって、麻生でも「何の構造認識」を語られたことがなく、ワンフレーズで「今までにないことをやってくれそー」だけでの期待で政治がやり過ごされてきている。
アメリカのオバマ人気も同様にも見える。
その結果、日本政治は潜在期待とは裏腹に社会不全の解消の端緒も見つからず混迷を深めている。
この間、経済危機に瀕して、政府の「ばら撒き給付の問題」をマスコミは報じているが、人々が求めている答えを提示していない。
ネットやブログでは盛んに議論している市場社会からの脱却等の認識との落差が埋まるのであろうか、今後の動向に注目していきたい。 |
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