>●つまり、「社会変革」という言葉それ自体が、欺瞞観念なのである。だからこそ、人々は「社会運動」の奥に、何かしらいかがわしさを嗅ぎ取ってきたのであろう。又、だからこそ、「社会変革」の旗の下には、壮士〜活動家に至るまで、(ごく少数の例外を除いて)自己欺瞞の強い不満分子しか集まらなかったのである。20055
「社会運動」とは何なのか?と思い起こしてみると、ほとんどが特定のテーマに特化した運動である。「労働運動」「環境運動」「人権・平和運動」・・・。実際の運動はこれらのテーマや対象をさらに細分化した運動である。そして中味は、だいたい権利の主張や要求運動である。
これでは、社会を対象化しているとは到底言えず、結局不満分子による目先の権利の獲得が主眼なのである。
しかし、これらの運動の総称として「社会運動」とか「社会変革」とかの冠をつけると、世の中のための立派な活動のように見えてくる。
これは、運動主体にとっては、社会評価の獲得になり、また体制側からすれば、これらの運動が体制の補完物でしかないことをカムフラージュできる。つまり、これらの運動はネットワーク化されているわけでも統合されているわけでもなく、この運動の積み重ねで社会が変わるわけではない。
結局、現実を否定・捨象して、頭の中の感応観念を満足するような運動は、最初から対象化すべきものを見失っている欺瞞運動ということになる。
かくして、(大量消費という)本質に目をそむけ、「できることからコツコツと」みたいな環境運動が、正当化され、実現しない平和運動や人権運動が展開されてゆく。
そういう欺瞞に対するオブラートが剥がれてきた現代、社会構造を直視し、事実を追求することだけが突破口となるのだろう。 |
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