古代豪族が矛を戦わせて戦争したという形跡は古墳時代にはない。ひたすら古墳を巨大化させることで互いを牽制していたと見るが、その背景には弥生時代後期から古墳時代初期にかけての豪族間の何らかの共通構造(談合的構造?)があるように思う。
関祐二の書籍「継体天皇の謎」の中で、弥生時代から古墳時代初期の西日本の状況について考古学データーを元に書かれたくだりがあり、信憑性が高いので投稿しておきたい。
問題意識はヤマトは果たして東征によってできたのか?という疑問である。答えから先に言っておくと古墳時代前期にヤマトと九州はそれぞれに勢力があり、九州勢力が低下したことにより西日本ヤマト勢力によって九州が取り込まれたのが事実ではないかと思う。
つまり、西から東ではなく東から西へ、若しくはそれぞれが独自に集権していたのが当時の状況ではないかと思う。
以下、関祐二氏の著書から抜粋してみました。
>弥生時代は本格的な稲作が始まった時代であるとともに、日本独自の青銅器文化が育まれていく時代であった。朝鮮半島では道具であった青銅も、日本に渡ってしばらくすると次第に大きな代物に変化し、「祭具」としての性格を帯びてくる。
おおまかに分けると弥生時代の西日本はおおまかに2つのグループがあった。
北九州と瀬戸内海西部を合わせた地域と、畿内を中心とした瀬戸内海東部のグループである。前者は銅矛、後者は銅鐸の文化圏が確立されていた。
弥生後期に入るとこのような分布域に変化が現れる。瀬戸内海の中ほどの吉備と出雲の周辺で独自の青銅器文化圏が生まれる。
これに合わせて西日本の政局が変化する。瀬戸内海に鉄が入らなくなった。これは関門海峡を九州勢力に押さえ込まれた為という説が有力である。
このためそれまで瀬戸内海ルートで九州から鉄を運び入れていたヤマトは慢性的な鉄不足に悩まされる。考古学的な資料では北部九州と出雲では月とスッポンほどの格差が生まれているのである。鳥取県の弥生後期の代表的遺跡である青谷上寺地遺跡と妻木晩田遺跡から想像を絶する量の鉄が地中から出てきている。2つの遺跡とも潟を有しており、鉄の流通に関わっていた事がわかる。集落の規模も152ヘクタールに及び、同時代の吉野ヶ里遺跡より大きい。関門海峡が閉鎖されたことに目をつけた山陰地方の首長層たちが、北部九州に独占されてしまった鉄の流通を日本海ルートによって復活させた。
同じ3世紀初頭のヤマトはどうであったか?(続く) |
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