日本の古代豪族のうち最大勢力を誇ったと言われる秦氏の系統について調べてみた。概観すると、秦氏は新羅(加羅、元の出自はチベット系?)より5世紀頃日本に渡来し、九州→山背の国(京都)と九州南部や四国に勢力を広げていった。
様々な殖産産業を行い、桓武天皇の平安遷都、そして日本版諜報機関の修験道との関わりも深い。
●秦氏考 リンク より
>50桓武天皇の平城京から長岡京・平安京への遷都に裏から経済的に支援した最大のパトロンが山背国葛野郡で勢力を張っていた秦氏であったことは間違いない。
>この氏族に出自を有するとされる後代の有名氏族としては、薩摩の島津氏 対馬の宗氏、四国の長曽我部氏、伏見稲荷社家、松尾神社社家、雅楽の東儀、林、岡、薗家らの楽家と称される氏族などである。
>一般的には、日本各地の富裕な土豪として各地の殖産事業に貢献したとされている。
●宇佐八幡神は新羅の神だった リンク より
『隋書』倭人伝である。608年、小野妹子は隋使・裴世清を伴い、帰国した。裴世清は、筑紫から瀬戸内海に入ったとき、中国人が住むという「秦王国」の存在を知らされる。「秦王国」とは、渡来帰化人の秦氏が多く住んだ豊前の地(現在は福岡・大分両県に二分される)のことであった。秦氏は、秦の始皇帝の血を汲む氏族で朝鮮経由で日本に渡来した、と自称していたのだ。
さて、この秦氏というのが、ものすごい。論者がそれぞれに主張することを合わせれば、半島の文明文化のすべてを運んだと言ってもいいくらいだ。例えば、畑作とは実は「秦作」であり、秦氏が畑作を広めたという主張がある。また、鍛冶や鋳造技術に優れ、養蚕や機(ハタ)織りに長けていたと言う。後述するが、仏教や道教の普及者でもあり、日本最多の社数を誇る「神社」稲荷ももとは秦氏の信仰である。
秦氏の渡来は五世紀後半以降、数度にわたりあったとされている。秦氏は新羅系加羅人と思われる。六世紀半ばに加羅は新羅に吸収されるが、その前から加羅には新羅人が多く住んでいた。秦氏もそういう一族である。「辛国」のカラとは、秦氏の故地である「加羅」を指している。
(中略)
九州での「降臨」伝説は、新羅・加羅から秦氏が八幡神とともに持ち込んだとも考えられる。豊前の秦王国から日向へ、そして大隈となった現鹿児島県東部から西部の薩摩へと、秦氏の移住先には八幡神信仰が移植され、その降臨伝承がニッポンの天孫降臨神話に置換されていった。降臨神話のすべてとは言わないが、少なくとも、もと八幡神信仰のあった地でのそれは置換されたものに相違ない。
(中略)
781年頃、朝廷は宇佐八幡神に「護国霊験威力神通大菩薩」の号を奉り、さらに783年に「大自在王菩薩」を追号している。これで、名実ともに「八幡大菩薩」となったわけだ。この「菩薩」とは何か。神宮寺が弥勒寺であるように、弥勒菩薩である。そして、秦王国にはもう一つの聖山があった。豊前・豊後・筑前に広がる英彦山(彦山。もと「日子」山)である。ここには英彦山社があり、香春と同じオシホネ命が祭られている。
英彦山は、後ちに役小角が開山とされるが、九州随一の山岳道場、修験道の霊場である。『熊野権現御垂迹縁起』(以下『熊野縁起』)は、熊野権現は唐の天台山から飛来し、まず英彦山に天下り、そこから伊予・石鎚山、淡路の遊鶴羽岳、紀伊・切部山、そして熊野新宮の神蔵山を経て、ついに本宮に顕現したという。本邦における山岳宗教・修験道の系譜は英彦山に始まっている。
役小角は本邦修験道の祖とされるが、奇妙な伝承がある。『日本霊異記』だが、道昭(百済系渡来人で、唐から帰国後、元興寺にいた高僧。日本法相宗の祖)が、唐で三蔵法師・玄奘に法相を学んでの帰国途上、わざわざ「新羅」に立ち寄り、そこの山中で修行中の役小角に出会ったというのである。なぜ「新羅」に役小角が居らねばならなかったのか。修験道の新羅出自を暗示するものである。 |
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