先稿に続いて「日本の渡来人」リンクより続きを投稿させていただきます。〜以降は私の方で読みやすいようにサブタイトルを入れました。
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【6世紀の渡来人】〜百済人を使いこなした蘇我氏と高句麗との交流の開始。百済系漢氏の活躍
こうした渡来人の勢力を蘇我氏は接近した。そのため積極的に仏教を受容しようとした。仏教の公伝は 538年とされるが、それ以前でも東漢氏のいる高市郡で司馬達等が継体天皇の時に草庵を営んでいたという。いずれにせよ百済系の仏教の強い地域であった。蘇我氏は司馬達等の娘を尼僧、善信尼として、これも漢氏一族の豊女と石女と一緒に百済へ派遣して仏教を学ばせた(543)。帰国後10人あまりが得度したが、いずれも漢氏系である。
6世紀の後半には、ヤマト政権と高句麗との交流が始まり(570)、高句麗を通じた文化流入が始まった。飛鳥寺では高麗尺を使った。高句麗の使節が日本に来たときに警護したのは東漢氏であるが、彼らはそれ以外にも新羅征討計画(602)、壬申の乱(両軍とも)で軍事力において大きな役割を果たした。さらに造仏造寺など土木工事にも活躍した。さらに外交でも外国の事情に明るい渡来人が利用され、漢氏系の高向玄理や南淵請安が派遣された。
一方で秦氏は中央政権との関係よりも地方の豪族から力をつけてきた。主に京都盆地、近江愛智軍、摂津豊島に分布して資材を蓄積した。京都広隆寺に見られるように、新羅系の影響が強いとされ、蘇我氏でも蘇我本家に反する人々が秦氏に接近した。豪族的性格が強かったため、彼らの信仰と、固有信仰が融合した。そのため稲荷、賀茂社、松尾神社の神主にもなっていった。
【第4の波 7世紀後半】〜新羅との関係の構築、中国との関係復活
東国へ高句麗人を配置(追いやる?)
新羅が伽耶を滅ぼしたことをきっかけに、ヤマト政権は新羅と関係を持つようになる。また、中国との関係も復活した。しかし、それも百済滅亡(660)、高句麗滅亡(668)によって一度途絶える。
日本には百済や高句麗から多くの人が渡来した。こえに対応して百済人男女400を神前郡(665)、男女2000名を東国(666)、余自信ら男女700名を近江蒲生郡に配した。一方で高句麗からも高麗若光や背奈福徳等が来ているが、高麗人687名を常陸国(687)に、さらに1799名を武蔵国(716)に配している。新羅とも国交が回復して(668)、新羅人を下野国に配した(持統期)。
大和朝廷は百済復興運動に失敗して、国内体制を立て直す必要が出来た。そのため渡来人の多い近江に都を一時的に遷した。沙宅招明、鬼室集斯、憶礼福留など百済からの渡来人を積極的に登用した。これ以降渡来人の勢力は、この時期に百済から渡来した人々が中心となっていく。一方で百済人2000名が東国に配されている(666)。
【奈良・平安時代】〜渡来人の土着過程、新羅人の関東への拡大
秦氏と漢氏の勢力争いは秦氏に軍配?、渡来人は姓を変えて日本融合。
一方で漢氏系集団はそれぞれの地域に土着化する。秦氏も同様である。地方官人クラスとして忌寸を称する帰化人集団が増えてきた。天武、持統朝になると百済男女214名を武蔵に、高麗人56人を常陸へ配するなど、渡来人を関東などの遠隔地に配するようになる。これは、大宝律令以降(701)、外国使節の往来する道路の近くに外来人を置かないとすることと、遠隔地の開発が眼目にあった。この流れで上州には新羅系渡来人を中心とした多胡郡が置かれ(711)、武蔵国の未開の地には新羅人による新羅郡が置かれた(758)。彼らはそれらの地域で土着化していく。
平安京に遷都した桓武天皇は母が渡来系であったため、秦氏の勢力が強くなる。また、東漢系の坂上苅田麻呂が桓武天皇の寵愛を受けた。その息子が坂上田村麻呂である。しかし9世紀にはいると、朝鮮を蕃国と見る思想が強まり、新羅人を陸奥に配したりした。これに対して駿河、遠江の新羅人が反乱を起こすこともあった(820)。830年には帰化を認めなくなった。一方で北九州や西国での新羅との交流などは続いていった。
このような流れの中で帰化氏族は始祖を中国に求めたり、8世紀に日本風の氏に改姓するものも増えた。この中で武蔵の新羅人が姓を金に変えたり(728)、上州の新羅人が吉井に姓を変える、百済王氏の一部が三松氏に変えるなど、全国的に名字が変えられ、一見渡来系とは分からない者も増えていった。この流れによって、日本が対外関係が希薄になることに合わせるように、9世紀に入ると渡来人と、日本側の人々との間に融合が起こり、「渡来人として」の姿は消えていく。もちろん、その後も様々なところに渡来人の影響は形をかえて顔を出してはいるが。
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