高句麗、百済、新羅の歴史で紹介してきたHP「だるまさんが転んだ」の韓国・東北アジアの歴史の記事の中に日本歴史を(1)〜(4)でまとめたものがある。この記事群は日本の歴史を東南アジアとの関連性の中でうまくまとめてあり、他の日本史の記事とは力点が異なる。今回はそのHPの中の「日本の渡来人」の部分を紹介しておきます。リンク
天皇系譜の争いの背後にある豪族の勢力争い分析の基礎資料になると思います。〜以降は私がサブタイトルを入れました。
※HPの作者の竹井一氏は日比谷高校の教師でありながら韓国史に精通しており極めて史実に忠実に日韓の関係を捉えている。リンク
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【日本と渡来人】〜概観
日本地域には多くの渡来人が来ている。渡来の波は大きく4回あるといわれるが、これには東アジア全体の動きと、日本(ここでは地域名として日本を使う)の王権の伸張、そして日本の朝鮮半島、大陸政策との関係を考えなければならない。言い換えると、王権との関係で渡来人(=帰化人)をどう考えるかということである。渡来人が日本に来たということともに、渡来人を日本に引きつける日本側の力も大きかったと言うことである。
さらに王権と関係を持った渡来人以外にも、日本に渡来した人々がいた。長野県に見られる渡来人関係の遺跡など、中央との関係では説明の付きにくいものもあるからだ。⇒長野にある高句麗系の大室古墳群リンク
【第1波 紀元前5世紀-3世紀】〜中国の戦国時代発の渡来人
第1の波は紀元前5世紀から始まる波である。中国では戦国時代(403-221)で、群雄割拠の時代を迎えていた。そのため中国から朝鮮半島に移る人が多く、さらにこれに押し出されるように朝鮮半島から日本に来た人々が多くいた。彼らの持っている稲作の技術によって、日本はそれまでの縄文時代から農耕を中心の弥生時代に移行した。集落も稲作に適した平野の近くに作られるようになった。
【第2波 4世紀-5世紀】〜新羅の秦氏と百済の漢氏が深く関わる。
日本では応神・仁徳天皇など倭の五王の時代にあたる。この時期中国東北では、慕容氏が南下して、それに押されるように高句麗が朝鮮半島を南下しはじめ、新羅は高句麗の影響下に置かれた。それに押されるように日本にも渡来が増えた。この時期日本では大王はじめ各地の有力豪族は、領域内の経済的、文化的発展と政治的支配力の強化を図っていた。そのため渡来人の技術が必要とされた。4世紀後半になると、ヤマト政権は畿内から西日本へ勢力を拡大した。
この中で、新羅との関係が深いとされる秦(はた)氏や、百済との関係の深い漢(あや)氏などはこの時期に渡来して、文筆や外交に携わった。これらのうち漢氏の東文(やまとのあや)氏の力が強くなる。
ヤマト政権は伽耶の鉄資源を巡り朝鮮半島にも勢力を伸ばしていたが、その軍事力を目当てに百済が関係を持ち、ヤマト政権に七支刀を送っている。しかし伽耶のヤマト勢力は、北から進出した高句麗に敗れた(400)。高句麗の圧力によりこれをきっかけに百済、倭とも中国に朝貢する(倭の五王 413- 502)。一方で高句麗の騎兵の影響を受けて、乗馬の風習が顕著になる。西文(カワチノアヤ)氏の地盤の河内地域にこれに関する伝承が多い。
【第3の波 5世紀末-6世紀】〜船氏、葛井、津氏の進出
雄略、継体、欽明天皇の時期に当たる。
朝鮮では新羅が急速に台頭し、伽耶、百済と対立した。百済は高句麗に都の漢城を落とされ(476)、熊津に遷都し、さらに扶余に都を遷す(538) など深刻な政治情勢に陥り、日本は畿内中心の古代国家の形成が本格化していた。支配体制の動揺を迎えつつ、新たな国家体制を作ろうとしたため、国家統治の技術として、渡来人の最新の知識や技術を必要とした。そのために積極的に渡来人を受容した。
今来の才伎(いまきのてひと)と言われる人たちで、王辰爾の後裔とされる一族(船氏、葛井、津氏)もこの時期に勢力を伸ばした。他にも綿織や綾織などの技術をもたらした錦部、須恵器をもたらした陶部などが相次いで渡来してきた。他にも百済から画部、手人部、鞍部、衣縫部、韓鍛冶部、飼部などが渡来する。
彼らは交通の要衝で西文氏の地盤であった河内古市付近や、飛鳥近傍の東漢氏の地盤であった高市郡に配され、それまでに定着していた渡来人と一緒となって、他とは文化的に異なった地域を形成していった。
河内では5世紀中頃から勢力の中心が西文氏から船氏に移り、大和でも東漢氏も実務から離れ、今来の人々と政府の仲介を行うようになる。渡来人の力は為政者に独占され、生産力の向上や富が蓄積されていき、6世紀には各地で群集墳が築かれるようになった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(続く)ーーーーーー
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