>祭りであれ、集いであれ、認識形成サイトであれ、何であれその場が、社会空間において物的な快美収束と同等以上の収束力を持つとすれば、人々はその場にお金を使う。逆に、社会的ないかなる活動or場であれ、そこまでの収束力を持ち得なければ、人々はそこにはお金を使わない。だから人々がそこにお金を使うか否かが、その場or活動の収束力(≒必要度)を計るモノサシとなる。
つまり、お金は(決して認識の質を測るモノサシなのではなく)、現実の必要度を測るモノサシとして機能するのである。(33179)
>これまで(前世紀まで)は、物財の「必要」は自明であり、従って人々はその価値の大きさだけを追い求め、お金は専らその価値量=価格を表わすモノサシとして機能してきた。それこそが、お金の本来の機能であった。従って、お金の『必要か否か』のモノサシへの変質は、お金にとっては実に窮屈な、面白くない役回りを強要されるということである。
しかし、それは序の口に過ぎない。それどころか、『必要か否か』という土俵上では、どれだけ多くの人が必要と認めたかが、つまり『人数』こそが、「お金」を超える最先端の評価指標となる。そこでは、お金は人数を判定する基準(お金を払った人だけを人数として数える)にすぎなくなる。つまり、古い評価指標=お金は、新しい評価指標=人数の補助指標に転落する。(33995)
両投稿を読んでみて、お金の特徴・役割が書かれていて興味深かった。
では、なんでや露店では、お金と人数とどちらが大切なのか??
@私権が第一の価値ではなくなった現代においては、全てのモノが「必要か否か」の判断軸=評価圧力に晒される。人々は必要・有益なものにはお金を使う。お金は現実の必要度を測るモノサシとして機能するのである。だから、私権社会で勝ち抜くためには、まずはお金が必要である。
Aしかし、それだけでは十分でない。それは、お金は決して認識の質をダイレクトに測るモノサシではないからである。
お金の機能・役割は時代とともに変化してきている。私権(物財)が第一価値の時代においては、お金は万能の評価機能であり、最高の価値であった(お金があれば何でも出来る)。しかし、貧困が消滅し、私権が第一価値でなくなり、「必要か否か」という判断軸・評価軸が出てくると、そこでは、お金の役割は、必要か否かという人々の意識を表すものに過ぎなくなる。
だから、認識の質、共認度(賛同度)を直接的に示すのは、認識に賛同してくれた認識仲間や協働者の人数であったりするのである。 |
|