100年〜800年までの天皇系譜の大きな流れを図解で描いてみた
大きな流れとしては以下のようなストーリーになる。
継体天皇までは豪族間で天皇が持ちまわりになっていた。この頃はまだ天皇とは呼ばれておらず、大和の豪族の首長という位置づけ程度。
継体から実権が蘇我氏に移行してから実質上の中央集権の体勢が作られた。この頃から天皇=国王という色彩が強くなり、実質は蘇我氏が実権を握ろうとしていた。百済がこの時期に国家崩壊し、大量に渡来した百済人主力が蘇我を乗っ取る形で天智系百済勢力が王権に就く。新羅系も黙っておらず、天武を睨み役で天皇家に送り込むと数年で国内の新羅系勢力を結集して王権を奪回する。
天武亡き後は持統天皇・不比等の力で再び百済系に戻す。唐や新羅との外交を考慮して実質完全に天武新羅系を天皇系から排除したのは天武亡き後100年後であった。
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(100年〜200年)
大量渡来人 ←(第2波)― 倭国大乱で
出雲、大和に王国 ・・・新羅系、百済系が日本へ大量漂着
出雲・尾張は新羅?百済は奈良・河内?
↓
↓ 新羅、百済建国
(300年〜500年)古墳時代 ↓
豪族支配(大王の持ち回り〜葛城が支配) ←→ 百済・任那と連携
力関係:豪族>天皇 |
天皇は新羅と百済の持ち回り?実質は葛城?
↓ |
葛城の衰退 任那が新羅に併合
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(500年代) 物部の登場 |
継体天皇〜任那王本人?(物部が担ぎ出す) ←王が任那から逃亡?
(600年代) ↓ |
蘇我VS物部⇒蘇我の勢力 豪族>天皇 ↓
(630年) ↓ 蘇我は高句麗? 百済の背走
百済から天智勢力がヤマトへ到着 ← ↓
(蘇我排除→蘇我暗殺) 百済領土失う
↓ ↓
百済勢力による巻き返し ←(第3派) 百済が全面的にヤマトへ
↓ (白村江の戦い 敗北)
(660年代) ↓
新羅から天武到着 ← 新羅と唐の圧力がヤマトへ
(680年) ↓ |
壬申の乱→天武(新羅)の国家支配?統合 (天皇>豪族)
百済勢力⇒新羅勢力へ 百済豪族支配⇒天皇制の確立へ
| 古事記の必要性(国内統合)
↓書紀も同時に編纂指示(存命中は完成しない)
(693年)
持統による巻き返し(不比等の登場)新羅勢力⇒百済勢力へ逆転
(720年) ↓ |
日本書紀 天武を組み込んで歴史書として唐へ伝える
(表向きは天武命、実質は=不比等と持統が作った) |
(古事記は処分) → 唐・新羅の圧力強大
↓
(780年)新羅系を根絶やしにし桓武天皇紀にようやく
晴れて天武系→天智系へ⇒百済一系の「新撰姓氏録」を世に出す
↓
(812年)新撰姓氏録に異を唱えたオホ氏により古事記に
序文が加えられ世に出る
序文に712年天武天皇〜天明天皇によって作られたと書かれる。
天武系は地下に潜る?
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以上はまだ仮説の段階です。
書紀と古事記の関係はまだまだ間を埋める根拠を探していきますが
一旦考える上でのたたき台として提起しておきます。
いずれにしても古事記・書紀は勢力争いの道具として使われたようです。
しかし武力に拠らず、例え捏造であっても歴史書によって勢力争いに決着を付けるあたりは既に日本という国の特徴(共認で物事が動く)を渡来人自ら察知していたように思います。 |
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