先日露店で出会った大学生1年生に、最近のマスコミについて聞いてみると…
「全然ダメですね。信用できるできないとかじゃなくて…」
マスコミ不信を通り越して、もう拒絶している感じだ。
じゃぁ社会の問題なんかはどうやって考えてるの?と聞いてみると…
「意外と仲間と社会について話すんですよー」
明るく答えが返ってきた。
既に彼らは自らの仲間関係の中で、その共認度合を深め始めている。
ただし、ここからが問題だと思う。彼ら自身が共認していても、まだ社会には場がない。
あるのは、『特権知識階級の商売道具と化した「構造認識」』(18718)で染まった社会だ。
実現できなければ、せっかくの共認形成が台無しになる。不可能視に陥る可能性だってある。
だからこそ、共認形成の場が絶対必要なのだと思う。 |
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