フレッド・ピアス著『水の未来−−世界の川が干上がるとき』の養老孟司氏の書評を、リンクより、以下引用。
◇「緑の革命」は思わぬ災厄をもたらした
二十一世紀は「資源問題」の世紀である。石油のピークアウトまで十年を切った。もう一つの大きな問題はなにか。水である。
日本は比較的には水に恵まれた国である。しかし世界の事情はそうではない。中国は急速に発展してきたが、その首根っこは水だといわれている。戦前の日本は米英中蘭の包囲網による石油の禁輸を食らって、勝ち目のない戦争に踏み切った。中国の「経済発展」は「水の壁」で止まるかもしれない。
そうした世界の水事情をどう見ればいいか。本書はそれを実地に踏査した、ジャーナリストの報告である。でも現場にちょっと立ち寄って見ました、というていどの軽い報告ではない。出来上がるまでに十年かかっている。要した歳月の長さは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』と同じ。いつも感じることだが、世界的な視野で経験的な事実を扱う、こうした報告は、日本の報道界には少ないという気がする。なぜだろうか。
日本の河川は国境を越えて外国から流れてくることもなく、外国へ流れていくこともない。それでも歴史上は、長い水争いの歴史を持っている。現代の世界にそれがないはずがない。ライヴァルという英語は、リヴァーに由来する。「同じ川の水を使うものどうし」という意味である。
たとえば新聞がパレスチナ紛争に触れるときに、ヨルダン川の水がどこに流れていっているか、書くことがあるだろうか。パレスチナの人たちが、どこのどういう井戸を使っているかに、考えが及ぶだろうか。いわゆる六日間戦争で、イスラエルはゴラン高原を押さえる。以後、手放したことはない。この高原を水源とするヨルダン川の水は、いまやイスラエルにだけ流れている。この紛争がはたして「調停」可能なのだろうか。
インドやバングラデシュでは、百万人単位の人々が、砒素(ひそ)の入った井戸水を日常的に使わざるを得ない状況になっている。どうしてそうなったのか。「緑の革命」は、単位面積あたり収穫量のきわめて大きい小麦を農民に使用させ、飢餓を救った。そのときに考えられていなかったことはなにか。この「すぐれた」小麦の新品種は、多量の水を消費する。ゆえに従来以上に灌漑(かんがい)水を消費するのである。
水の消費量が増えただけではない。乾燥地に灌漑水を引けば、かなりの水がただ蒸発する。ヤカンを空焚(からだ)きしたとき、ヤカンの底を見ればわかるであろう。たとえ淡水でも、塩分を含んでいる。その塩分は水が蒸発した後も、地面に残る。海水が塩辛いのは、多年の間にその塩分が「煮詰まった」からである。小麦の新品種の開発は福音だったが、その福音は別な災厄をもたらした。生物の作るシステムについて、「新技術」の導入くらい怪しいものはない。バイオ燃料の推進論に、だから私は懐疑的である。人間はそれほど知恵のある動物ではない。
世界地図に載っていたアラル海は、ほとんど消えかけている。そこで数十年前には活発に漁業が行われていたとは、まったく信じられない。テレビの画面でその悲惨な状況を見たことのある人も多いであろう。むろんその代わりに得られたものがある。それは綿花である。あなたが着ている衣料にも、「消えた」アラル海の数滴が含まれているかもしれない。
「領土問題は重要だが、水は生死の問題だ」。イスラエルのシャロン元首相は自叙伝にそう書いた。平和の国日本の人々に、ぜひ本気で読んでいただきたい本の一つである。
(以上、引用) |
|