「教えても学ばない、教えなくても学ばない。」
どうやってよいか分からない。このようなことで悩んでいる上司や先輩も多いのではないだろうか。
これは、「教え方」そのものよりも、「そもそも『教える』とはなにか?」を考える必要がある。
◆「教えない⇒先生(上司)の姿を見て学ぶ」
この考え方は、日本のかつての教育方法として実践されてきた。
職人や武道などの伝承は、まさに「教えない」ことで体得されてきた。真似できないものはそのまま淘汰され残っていけない。だから、「学ばなければ生きていけない」という生存圧力が強烈に働いていた。だから、まず真似て体で覚え、何回も繰り返すうちに物事の本質を理解していった。
つまり、「学ぶ」ことが目的ではなく、結果的に「学んだ」のだ。
しかし、現在はこのやり方では、単に何も教えない上司、先輩だ。
◆「丁寧に教える→観念でしかとらえられない=現実の役にたたない」
具体的に伝えなければ、何もやってくれない、覚えてくれない。だから、現在の「教える」とは、一から十までこと細かに伝えることだと思っている人も多いだろう。
教育場面においても、みんなが理解できるように映像を用いて懇切丁寧に伝える。そして、みんなが一様に理解する。
実は、「観念によって教える」限り、相手も観念でしかとらえることができず(しかし理解したから満足する)、頭の中でしか考えないから、上司や先輩の真似をしようと思わない。だから、自分の中でしか判断しないし、共認回路を使わないからある一定の知識レベルでとまってしまう。だから、現実の場面で活用しても体が動かない、応用がきかない。(勉強不足だと思って、さらに観念だけが肥大する)
しかし、全く通用しないかというと、そういうわけでもない。観念を使ってある一定の知識や技術を身に付けているので、淘汰されずになんとかやっていけるから、むしろ逆にやっかいだと言える。
ある一定の人材は生まれるが、優秀な人材が生まれないのは、このような構造からも分かる。
結局のところ、「ものごとを教える」ことから、本来の「学ぶ」は生まれないのだ。
ここで「教える」ことと圧力構造との関係をまとめよう。
かつての「教えない」という行為は「生存圧力を教えていた」ということとイコールなのだ。だから、真似をし、学んだ。
しかし、現在の「教える」は、ものごと(知識)だけで圧力とは全く関係ない。むしろ歪んだ観念によって圧力を捉える力を鈍化させているとも言える。
さらには、現在は勉強しなくても、働かなくてもなんとなくやりすごすことができ、社会からの圧力自体がとらえられない状態だ。
まず、上記のような認識転換が必要で、そして、これが分かれば、「『教える』とは『圧力を作り出すこと』」そのものだと分かるだろう。
共認原理への転換によって生まれる共認圧力が最大の圧力である現在、「自己中は敵だ」「人に喜んでもらえなければ、役にたたなければ淘汰されていく」という共認圧力を作ること、そして、収束不全から突破するための答えを作ることが社会からの期待である圧力を伝え、作ること、つまりこれが「教える」ということだ。 |
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