日本人の起源(縄文・弥生・大和)
184693 公孫氏とは?〜三国志年表 から探る。
 
かなめんた ( えどっこ ) 08/09/04 AM11 【印刷用へ
>『晋書巻97四夷傳』に「名を卑弥呼と曰う。宣帝の平らぐ公孫氏なり。」との記載があり、「争乱に明け暮れていた倭に一人の女性が擁立され王になって乱も収まった。その女王に即いた者の名を「卑弥呼」というが、彼女はかつて西晋の始祖宣帝に滅ぼされた「公孫氏」であった」と伝えているのである。
ちなみに宣帝とは、魏の司馬仲達のこと。もと東漢の外臣で、4代50年に渡って遼寧省一帯に君臨した公孫氏の太守、渕(えん)を西暦238年に討ち、これによって曹魏の遼東平定が成る。(184428 谷光さん)

公孫氏とはどういう存在だったのだろうか?
リンクを下敷きに年表をつくってみた。

中国皇帝 年号 王・族長 事跡
公孫延、役人の追及を逃れ、玄菟郡に移住
公孫豹(度)、玄菟太守公孫[王或]の庇護              を受ける
公孫豹(度)、玄菟郡の官吏に登用される


【霊帝】
         公孫度([王或]?)、高句麗王伯固と協力              して富山の賊を平定する
184 公孫度、高句麗王男武と戦う
公孫度、冀州刺史となるが流言により罷免さ              れる
(★184年は太平道の張角が起した黄巾族の乱で後漢は戦乱状態。五斗米道も巴郡で蜂起している。桃園の誓いもこの年と言われる。倭ではこの年に卑弥呼が倭国統一で倭国大乱終結とされる。前年の183年頃、朝鮮では辰国が馬韓、弁韓、辰韓にわかれる。)

【少帝】
189 公孫度、徐栄の推薦で遼東太守となる

(徐栄とは、洛陽に入り相国となって実権を握った董卓の武将。)

【献帝】
190 公孫度、遼東侯・平州牧を称す
公孫度、遼東郡を分割し、遼西中遼郡を置く
公孫度、渡海して東莱郡を征服し、営州刺史              を置く
公孫度、扶余国王尉仇台に一族の娘を娶せる
公孫度、楽浪・玄菟郡を勢力下に置く
196 王烈・管寧・ヘイ原らが遼東に難を避ける
曹操、上表して公孫度を武威将軍・永寧郷侯              に任じる
公孫度、任命を不満とし、印綬を封印する

(196年に曹操が献帝を保護し、司空となる。200年には官渡の戦いで河北の袁紹を破っている。管寧らに関してはリンクを参照。当時の遼東は文化水準も高かったようだ。)

ヘイ原、遼東を去り、北海に帰る
204 公孫度死す、長男の公孫康が後を継ぐ
公孫康、楽浪郡の南に帯方郡を置く
公孫康、帯方郡の移民を募り、韓ワイを討ち              勢力下に置く
205 曹操の武将張遼、海岸沿いに北上し公孫康の              部下柳毅を破る
206 公孫康、亡命してきた烏丸の速附丸を斬る
207 公孫康、亡命してきた袁尚・袁煕を殺害し、              首を曹操に送る
曹操、上表して公孫康を左将軍・襄平侯に任              じる
(曹操が河北を平定する。この年、三顧の礼で諸葛亮が劉備につく。208年には赤壁の戦いが起こる。曹操の力が弱まったの見て、公孫康も動く。)

209 公孫康、高句麗を攻める
高句麗王伊夷模の兄抜奇、公孫康に帰順する
高句麗王伊夷模、公孫康に追われ、都を移す
この頃、公孫康没し、弟の公孫恭が後を継ぐ

(公孫康の息子が幼かったため、弟に公孫恭が継いだ。この間、213年には曹操が魏公となり、216年に魏王となる。220年に曹操が死に、息子の曹丕が魏帝となる。)

218 王烈、遼東の地で没す
公孫恭、公孫康の長男晃を人質として洛陽に              送る

【曹丕】
221 曹丕、公孫恭を車騎将軍に任じ、公孫康に大              司馬を追贈する

(この年、劉備が蜀の皇帝になる。222年、亀滋などの西域の国が魏に朝貢。)

223 管寧、曹丕の招きに応じ、遼東を離れる

【曹叡】明帝
228 公孫恭、甥の公孫淵に位を追われる
曹叡、公孫淵を揚烈将軍・遼東太守に任じる

(この年、大月氏が魏に来朝。親魏大月氏王に封じられる。229年に呉の孫権が皇帝となり三国時代となる。)

232 呉の孫権、周賀・裴潜を遣わして公孫淵に勅              書を届ける
公孫淵、宿舒と孫綜を遣わして孫権に朝貢す              る
233 孫権、張弥と許晏を遣わして公孫淵を燕王に              封じる
公孫淵、張弥と許晏を殺害し、首を魏に届け              る
曹叡、公孫淵を大司馬・楽浪公に封じる
曹叡、カン丘倹を楽浪郡南に派遣して呉と高              句麗に備える

(234年、五丈原で司馬懿と対峙していた諸葛亮が没す。蜀が弱体化していく。236年、高句麗王の位宮が呉の使者の首を魏に届ける。)

236 公孫淵、曹叡の入朝命令を拒み、魏に反旗を              翻す
237 カン丘倹、遼東に侵入したが、出水に逢い兵              を引く
公孫淵、自立して燕王を称し、元号を紹漢と              定める
公孫淵、鮮卑の単于に働きかけ、魏の北辺を              荒らさせる
238 魏の司馬懿、4万の兵で遼東に侵入する
公孫淵、孫権に謝罪し、救援を求める
公孫淵、襄平城で司馬懿に包囲される
公孫淵、襄平を脱出して逃走を図り、司馬懿              に斬られる(8月)
劉[日斤]と鮮于嗣、海路朝鮮半島に渡り、楽              浪・帯方郡を平定する
公孫淵の兄公孫晃、洛陽の獄中で金屑を飲ま              されて死ぬ

(公孫淵は降伏しようとしたが、司馬懿がそれを許さなかった。洛陽にいた公孫晃も死罪になったが、公孫淵に幽閉されていた、公孫恭は、魏に背かなかったという理由で助けられた。遼東では約7000人の成年男子が虐殺されたという。)

239年(238年6月の説もあり)、卑弥呼が帯方郡に使者を送り、親魏倭王に封じられる。
関連:リンク
243年、卑弥呼再び、魏に使者を送る。
245年、卑弥呼、狗奴国との戦いの援軍を魏に頼む。難升米に魏の旗が渡され、激励を受ける。
247年、魏の使者が邪馬台国を訪れて激励。関連:リンク
248年、卑弥呼死去。
249年、司馬懿が魏にクーデター
261年、楽浪外のワイ、パクが魏に朝貢する。
263年、蜀滅亡
264年、司馬懿の息子の司馬昭が晋王の位につく。
265年、司馬昭が死に、司馬炎が晋王とり、晋の皇帝となり、魏が滅亡。
266年、倭(台与)から晋に使者が来る。
280年、晋が呉を滅ぼして中国統一。

参考
リンク

リンク

リンク
 
List
  この記事は 184428 への返信です。
この記事に対するトラックバックURL  http://www.rui.jp/tb/tb.php/msg_184693
  ※トラックバックは承認制となっています。

[過去の記事へ]
[一覧へ戻る] [新しい記事へ]


◆実現論本文を公開しています。
 実現論 : 序  文
 第一部 : 前  史
 第二部 : 私権時代
 第三部 : 市場時代
 第四部 : 場の転換
 参考文献

 必読記事一覧
01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28
大転換期の予感と事実の追求
実現論の形成過程
自考のススメ1.未知なる世界への収束と自考(1)
自考のススメ1.未知なる世界への収束と自考(2)
自考のススメ1.未知なる世界への収束と自考(3)
自考のススメ1.未知なる世界への収束と自考(4)
自考のススメ2.現代の不整合な世界(問題事象)(1)
自考のススメ2.現代の不整合な世界(問題事象)(2)
自考のススメ2.現代の不整合な世界(問題事象)(3)
自考のススメ3.自考力の時代⇒「少年よ、大志を抱け」(1)
自考のススメ3.自考力の時代⇒「少年よ、大志を抱け」(2)
1.これから生き残る企業に求められる能力は?
2.私権圧力と過剰刺激が物欲を肥大させた
3.市場の縮小と根源回帰の大潮流
4.共認回帰による活力の再生→共認収束の大潮流
5.自我と遊びを終息させた’02年の収束不全
6.同類探索の引力が、期応収束を課題収束に上昇させた
7.情報中毒による追求力の異常な低下とその突破口
8.大衆支配のための観念と、観念支配による滅亡の危機
9.新理論が登場してこない理由1 近代観念は共認収束に蓋をする閉塞の元凶となった
10.新理論が登場してこない理由2 専門家は根本追求に向かえない
11.学校教育とマスコミによる徹底した観念支配と、その突破口(否定の論理から実現の論理への転換)
12.理論収束の実現基盤と突破口(必要なのは、実現構造を読み解く史的実現論)
近代思想が招いた市場社会の崩壊の危機
新理論を生み出すのは、専門家ではない普通の生産者
現実に社会を動かしてきた中核勢力
私権時代から共認時代への大転換
市民運動という騙し(社会運動が社会を変えられなかった理由)
民主主義という騙し:民主主義は自我の暴走装置である
統合階級の暴走で失われた40年
大衆に逆行して、偽ニッチの罠に嵌った試験エリートたち
新理論の構築をどう進めてゆくか

『るいネット』は、50年の実績を持つ起業家集団・類グループが管理・運営しています。るいネットワーク事務局(Tel:0120-408-333, E-mail:member@rui.ne.jp