縄文時代の人の移動はどの時期にどの程度の規模で発生したのだろか?縄文時代1万年を通じて中国江南地方からかなりの規模で江南人(越人)が漂着していることが明らかになっている。
人の動きを予測するには気候変動が重要なファクターを握ります。その意味で再度、縄文時代の気候変動を洗い出しています。いくつか有力な著書の資料が出てきましたので紹介していきます。
安田 喜憲氏は著書「環境考古学が示唆する気候変動と人類の歴史・文明の興亡」の中で古代気候が以下のように報告されている。
>従来、年代測定には「放射性炭素同位体」が用いられてきたが、これだと統計上の誤差は±100年。1000年前に大きな気候変動があったと言われても、それは900年前かもしれないし、1100年前かもしれない。人間の歴史は年単位で変わるのに、こんなアバウトな測定では、気候と文明の正確な関係は捉えられない……。
しかし、1993年、私たちが福井県にある三方五湖のひとつ水月湖で発見した「年縞(ねんこう)」によって、状況は一変した。年縞とは、湖底に堆積した層が描く縞模様。春から夏に珪藻が繁殖してできた白い縞と、秋から冬にかけて粘土鉱物が堆積した黒い縞がセットになり、樹の年輪と同様、1対の縞が1年の時間を表す。年縞の中には、花粉やプランクトン、火山灰や黄砂などが含まれているため、それを分析することで、過去の気候変動を年単位で復元できる。
この「年縞」によって、さまざまな新事実が明らかになった。例えば、東洋と西洋で農耕の起源を見ると、日本や中国南部のモンスーンアジアで稲作は1万5000年前に始まり、縄文土器は1万6000年前に遡るのに、西アジアでの麦作はせいぜい1万2000年前で、土器の出現は9000年前と遅い。その理由がわからなかったが、年縞を使って復元すると、モンスーンアジアでは500年以上も早く温暖化が起きていた。それまで気候変動は、地球上のあらゆる場所で同時に起きると思われていたが、氷期から後氷期へ、気温が一気に6℃も上がるような大変動の場合、かなりの地域差・時間差があることがわかった。世界でいち早く温暖化したモンスーンアジアで、文明の第一歩、農耕が始まったというわけだ。
古代文明の興亡にも、気候は深く関わっている。例えば7000年前は気温が今より2〜3℃高い「気候最適期」だったが、西アジアでは5700年前から寒冷化、乾燥化が進み、砂漠周辺に暮らしていた牧畜民が水を求めて大河沿いの農耕地帯に大挙移動し、メソポタミア、エジプト、インダス、黄河の4大文明が誕生した。いずれも畑作牧畜をベースにした都市文明だが、より早くに稲作を始めた人々が文明を手にしないはずはない──そう考えて調べたところ、温暖化が500年早かった長江では、乾燥化も500年以上早い6300年前に始まり、黄河文明に先んじて、稲作漁労をベースにした長江文明があったことを発見した。
そして4200年前の気候悪化、干魃により、古代文明は次々に自滅。長江文明の場合は、気候悪化に伴う黄河流域の人々の南下・侵略によって衰退していった。このように気候悪化が民族移動と文明崩壊を引き起こすのは、4〜5世紀のゲルマン民族大移動によるローマ帝国滅亡時にも見られた。
日本の歴史も気候変動と無縁ではない。例えば645年、大化の改新の時は寒かったが、奈良の大仏建立が始まった740年頃から気温が上昇し、840年頃までの100年間に年平均気温は2℃上昇。だから740年以前を「万葉寒冷期」、以降を「大仏温暖期」と呼ぶ。そして温暖期には東北地方へと荘園が拡大する一方で、京都では洪水や干魃が万葉寒冷期の約10倍にも増加した。
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上記の記述の内、重要な数字を並べると
・7000年前は現在より2〜3度気温が高い「気候最適期」である。
・西アジアでは5700年前から寒冷化、乾燥化が進み文明が誕生した。
・東アジアでは西アジアより500年気候のサイクルが早く、6300年前には長江文明が誕生している。
・4200年前の気候悪化により古代文明は崩壊、人の移動、侵略が増加した。⇒(これが中国江南地方からの環境難民の移動時期に当たる)
※この4200年前には
東地中海で干ばつ〜大規模なエルニーニョ現象が起きてBC2200年以降300年に渡る大干ばつが起きる。(ブライアン・フェイガン 古代文明史と気候大変動)
エジプト古王国滅亡(4200年前)
アッカド王朝(4350年前〜3700年前)
バビロニア王朝(3830年前〜)
龍山文明(3700年前〜3400年前)
安田氏の記述によると4200年前頃(BC2200年)が各地での民族移動の時期に当たる。日本ではこの少し前の4500年前に三内丸山遺跡が消滅している。 |
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