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184402 |
【要約】『邪馬台国論争終結宣言』山形明郷著〜@古朝鮮は遼東半島にあった |
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谷光美紀 ( 30代 愛媛 経理 ) |
08/09/01 PM05 【】 |
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●はじめに
『韓傳』の『倭国・倭人』に関する条文に於て、いわゆる「倭」と謂われた国邑は「韓国」の南界に「隣接」して存在した旨の記載がある。同じく『韓傳』に、「韓国」は、中国漢帝の植民市であった「楽浪(らくろう)・帯方(たいほう)」などの南辺に存在していたと記録されている。では、「楽浪・帯方」はどこにあったのだろうか? それには「朝鮮」と謂われた古代国家の所在地の詮索が必要である。
■古朝鮮はどこにあったのか
定説では、古(いにしえ)の「朝鮮国」を今日の朝鮮半島北西部一帯に位置づけ、その都「王検(おうけん)」をピョンヤンに置いて解釈している。とんでもない間違いであり、これが古代東アジア史の歪曲化の始まりである。ここで蹴躓いているから、『倭人傳』解釈も狂うのである。
『史記集解(しきしゅうかい)』(南朝の宋(420年)に撰された書物)中に、「朝鮮に湿水・洌水・汕水あり、三水は合して洌水となる。」とある。また、「列は水の名、列水は遼東に在り。(『後漢書郡国志』)」、「列口(れっこう)は県名なり。列水の河口は遼東に在り。(『資治通鑑』)」、「分黎山(ぶんりざん)は列水の出づる所、西、ネンテイに至りて海に入る。行くに820里。(『漢書地理志』)」との記載もある。
これらの条件を満たす河川はひとつしかない。すなわち、中国遼寧東部を流れる「太子河」である。よって、古代朝鮮もこの河川流域に存在した古代国家だった。
上記のように推定すれば、その他の中国史書の記述とも一致するのである。しかし定説の位置とした場合はまったく辻褄が合わない。
※また前700年代、朝鮮は諸族連合体制を整え全盛期を迎える。周が二分し東遷を余儀なくされ、諸侯達が春秋五覇戦国七雄へと割拠対立する時代になったのは、現在言われているような蛮族の侵攻が原因ではなく、殷の後身で東北の雄となった「朝鮮」の中国侵攻が引き金である。
定説の古朝鮮所在地:リンク
山形氏説の古朝鮮所在地:リンク |
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