三百年前に、「魏志倭人伝」が日本の歴史書であると初めて断定したのは江戸期の「儒学者」であった。
この時、「魏志倭人伝」の信憑性は、何ら検証されることはなかった。
三百年後に、その「魏志倭人伝」の信憑性たるやいかにお粗末であるか、「儒学者」の怠った検証を、古代東アジア史の第一歩である「古代朝鮮の所在地」の解明から、徹底的に検証し直して、
「魏志倭人伝」が《100%日本の歴史書でない》と世界・本邦で初めて断定したのは、当『邪馬台国論争・終結宣言』の著者、山形明郷氏であった。
以下に、その内容を引用
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
リンク
山形 明郷著『邪馬台国論争・終結宣言』
17)李 鐘恒(イ チョンハン)元・韓国国民大学学長
『古代韓国と倭の豪族』より
「倭」が即古代「日本」のことではないという、現在の我が国古代史学界の大前提たる「定説」を全面的に覆(くつがえ)してしまう、「最重要事項であるこの大命題」について、当『邪馬台国論争・終結宣言』より、以下そのまま転載いたします。
【元・韓国国民大学学長 李 鐘恒(イ チョンハン)氏は
『古代韓国と倭の豪族』の中で次の如く謂(い)う。
「倭といえば、すぐそれは日本列島内の住民で、大和政権下にある人達
であると考えるのが常識になっている。
この常識は新羅(しんら)の統一以後は正しい。
然(しか)し、紀元前後から六世紀中頃までは、この常識は通じない
ばかりでなく間違いである。
倭人は韓半島の南部、即(すなわ)ち慶尚南道(けいしょうなんど
う)の海岸地帯から、全羅南北道(ぜんらなんぽくどう)の広範な
地域にわたって住んでいた在地原住民である。
これら倭人の居住地は非常に広く、彼らの数を全部集めたなら厖大
(ぼうだい)なものになったものと思われる。 」
李(イ)教授は六世紀以前の「倭・倭人」を指(さ)して「在地原住
民」、或(あるい)は「土着せる倭という名の朝鮮人」
と指摘している。
このような指摘は、今日(こんにち)現在我が国で固定化され、且
(か)つ常識とされていた説を大きく揺るがす存在で、我が国の史家や
研究家などとは雲泥の差ある卓見(たくけん)と云えよう。
「倭」を「古代日本」に、亦(また)、「邪馬台」を「大和朝廷」の 前身と言うことで、矢鱈(やたら)に囂(かまびす)しい論議を展開さ
せている向(むき)は、抑々(そもそも)が「倭」という総体的な輪郭
の把握が出来損(そこ)ねているからである。 】
16)17)と続け、我々の教え・教わっている「倭」についての常識的な 「大前提であるはずの定説」が、根本的・致命的に間違ってしまっている
ことを日韓の両・碩学(せきがく)は、簡潔な文章で的確に伝えており
ます。
しかし、残念ながら、我が国のほとんど全ての歴史学者・歴史マニア・
マスコミ関係の人達が、「魏志倭人伝・二千文字」に拘泥・固執し
け、固定化してしまっている<「倭」イコール「日本」であるとい
頑迷固陋(ころう)な「定説」>の呪縛から未だ目覚めることが出来
ず、惰眠をむさぼっているのが現状である。
(中略)
『倭の五王』に就(つい)ても、これを応神(おうじん)から仁徳(にんとく)に始まって、雄略(ゆうりゃく)に至る迄の五人の天皇の名に推定しようとしているが、この事は朝鮮の学者は不審に思っており、日本の研究者が云う程度の比定の仕方であれば、『三国史記』に出て来る新羅(しんら)の王名に充分に当嵌(あてはま)るのではないか。
リンク
|
|