日本人と縄文体質
183471 朝鮮半島南部(馬韓、辰韓、弁韓)の歴史と民族
 
山澤貴志 ( 43 鹿児島 ITコンサル ) 08/08/17 PM09 【印刷用へ
引き続き、塚田敬章氏による「古代史のホームページ」リンク より、朝鮮半島南部(馬韓、辰韓、弁韓)の歴史と民族について

********************************

●朝鮮南部(馬韓、辰韓、弁辰) 

「韓は帯方郡の南、東西は海をもって限りと為し、南は倭と接している。広さはおよそ四千里四方。三つの国があり、一は馬韓といい、二は辰韓といい、三は弁韓という。辰韓は昔の辰国である。(魏志韓伝)」 辰国の辰は東南を表し、朝鮮半島東南の国という意味のようです。

●馬韓 

馬韓は西に在って、黄海に面していました。後の百済の位置と言えば理解しやすいかもしれません。その住民は定住して農耕する。養蚕を知り、綿布を作る。国ごとに権力者がいて、山海の間に散らばって住み、城郭などはなかったといいます。大国は万余家、小国は数千家で、全部で十余万戸があり、その一国の月支国を治める辰王は、馬韓にあって、辰韓十二ヶ国を統治していました。魏志韓伝には、馬韓の五十余ヶ国が記されていますが、その中に伯済国があり、これが百済の前身です。

百済は高句麗から分かれたとして、夫余とも名乗っています。また、馬韓には卑弥国、不弥国という国名も見られ、倭人伝の卑弥呼、不弥国と共通の文字が用いられています。この二つは越人の国の可能性が感じられますから、邪馬壱国は馬韓(百済)から渡来したとできるかもしれません。

死者を葬るときは、夫余や東沃沮と同様、槨に納めるが棺はない。しかし、金銀が宝で、珠玉を宝としないという北方の風俗に対し、馬韓では、逆に、金、銀、錦を宝とせず、珠玉を以って財宝と為し、衣服に縫い付けたり、首飾りや耳飾りにするのです。珠玉を宝とするのは呉、越等の南方系風俗で、韓には南方系要素がより強く入り込んでいました。入れ墨する者がいるとも記されています。「住居は草の屋根と土の部屋を作り、(中国の)墓のような形をしている。戸口は上にあって、家を挙げて、いっしょにその中に住んでいる。長幼、男女の区別はない。」「牛や馬に乗ることを知らず、牛、馬はみな副葬に使ってしまう。」となっていますから、乗馬は馬韓には入っていません。馬の韓というのは音を採っただけでしょうか。

鬼神を信じ、国ごとに一人を立てて、天神の祭りをつかさどる。これを天君と呼んでいました。また、諸国に蘇塗(ソト)と呼ぶ特別な集落が在り、鈴や鼓を懸けた大木を立てて、神の聖域であることを示し、政治権力の及ばない治外法権地帯と為しています。日本の神社も同様の機能を持っていたようで、雄略紀などには、追われる者が神社に隠れようとする記述が見られます。

●辰韓

「辰韓は馬韓の東にある。その老人は、代々、次のように言い伝えている。むかし秦の労役を避けて、韓国にたどり着いた亡命者で、馬韓がその東の土地を割いて与えてくれたのである。(魏志韓伝)」辰韓は馬韓の東ですから、日本海側、後に新羅となる位置に存在した国です。その十二国の中に斯盧(シラ)国があり、これが新羅(シラギ)の前身とされています。

馬韓の記録では、その月支国の王が辰王であるとされています。辰韓は辰王(月支国王)に従属していて、そして、その辰王は馬韓の中の一つの国を統治する王にすぎなかったというわけです。馬韓は十余万戸で、辰韓は四、五万戸となっていますから、人数的に圧倒されていましたし、国を分けてもらったという負い目もあったのでしょう。

秦の始皇帝に遼東半島へ駆り出され、長城建設に酷使されていた民族が、秦の滅亡後、楽浪郡へ南下し、その一部がさらに馬韓に逃れて、その東方に辰韓を建国、馬韓の辰王に従属していたということになります。

●弁辰

辰韓人は、秦の労役を逃れて馬韓の東へ来たと伝えていました。おそらく始皇帝死後の騒乱にまぎれて脱出したのでしょう。何処かから、長城建設のため強制移住させられたのです。

弁辰人と辰韓人は、おそらく、時を同じくして馬韓に逃亡して来たのでしょう。つまり、秦に征服された別の土地から遼東へ連れてこられたということで、だからこそ、馬韓が割き与えた東の土地に雑居していたのではないか。

弁辰と辰韓は衣服、住居、言語、法俗が良く似ているとされていて、大きく異なるのは宗教です。似ているが、少し系統の違う民族でした。そして、竈を必ず家の西側に作ると言う弁辰人は、竃に特別な意味を与えていたらしく、これは、竃神、祝融の子孫と唱える楚人を想起させるのです。いずれにせよ、馬韓、辰韓、弁辰(弁韓)の三つの国は、基盤となった北方アルタイ語族と春秋晩期以降に大挙移住した江南の勢力が、異なった割合で、複雑に混交しており、習俗も混乱しています。
 
List
  この記事は 183468 への返信です。
この記事に対するトラックバックURL  http://www.rui.jp/tb/tb.php/msg_183471
  ※トラックバックは承認制となっています。

 この記事に対する返信とトラックバック
183480 朝鮮半島の民族移動と日本への影響(倭国大乱) 山澤貴志 08/08/18 AM01

[過去の記事へ]
[一覧へ戻る] [新しい記事へ]


◆実現論本文を公開しています。
 実現論 : 序  文
 第一部 : 前  史
 第二部 : 私権時代
 第三部 : 市場時代
 第四部 : 場の転換
 参考文献

 必読記事一覧
01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28
大転換期の予感と事実の追求
実現論の形成過程
自考のススメ1.未知なる世界への収束と自考(1)
自考のススメ1.未知なる世界への収束と自考(2)
自考のススメ1.未知なる世界への収束と自考(3)
自考のススメ1.未知なる世界への収束と自考(4)
自考のススメ2.現代の不整合な世界(問題事象)(1)
自考のススメ2.現代の不整合な世界(問題事象)(2)
自考のススメ2.現代の不整合な世界(問題事象)(3)
自考のススメ3.自考力の時代⇒「少年よ、大志を抱け」(1)
自考のススメ3.自考力の時代⇒「少年よ、大志を抱け」(2)
1.これから生き残る企業に求められる能力は?
2.私権圧力と過剰刺激が物欲を肥大させた
3.市場の縮小と根源回帰の大潮流
4.共認回帰による活力の再生→共認収束の大潮流
5.自我と遊びを終息させた’02年の収束不全
6.同類探索の引力が、期応収束を課題収束に上昇させた
7.情報中毒による追求力の異常な低下とその突破口
8.大衆支配のための観念と、観念支配による滅亡の危機
9.新理論が登場してこない理由1 近代観念は共認収束に蓋をする閉塞の元凶となった
10.新理論が登場してこない理由2 専門家は根本追求に向かえない
11.学校教育とマスコミによる徹底した観念支配と、その突破口(否定の論理から実現の論理への転換)
12.理論収束の実現基盤と突破口(必要なのは、実現構造を読み解く史的実現論)
近代思想が招いた市場社会の崩壊の危機
新理論を生み出すのは、専門家ではない普通の生産者
現実に社会を動かしてきた中核勢力
私権時代から共認時代への大転換
市民運動という騙し(社会運動が社会を変えられなかった理由)
民主主義という騙し:民主主義は自我の暴走装置である
統合階級の暴走で失われた40年
大衆に逆行して、偽ニッチの罠に嵌った試験エリートたち
新理論の構築をどう進めてゆくか

『るいネット』は、50年の実績を持つ起業家集団・類グループが管理・運営しています。るいネットワーク事務局(Tel:0120-408-333, E-mail:member@rui.ne.jp