環境破壊、肉体破壊、精神破壊、財政破綻…。社会不全はいまや誰もが感じている。
しかし、その解決のためには抜本的な変革がイメージされ、自分の生活がどうなるかといった不安がよぎる。そして、いまの生活のためには市場経済などの枠組みは大きくは変えられないと感じ、思考停止する。
たしかに、それは尤もな部分もある。充足できそうな答えがないからだ。
なんで屋にもそのような人がたくさんやって来る。そこで「共認」とか「共同体」などという概念のみを発しても、それは相手にとっては「自由」や「個人」と同じ感応観念(価値観念や規範観念)にしか聞こえない。
相手の思う「市場経済は必要」というのも感応観念であり、感応観念で考える限りぼやっとしてしまってスッキリしない。場合によっては価値対立を生む。
「共認」や「共同体」という言葉の背後には、事実認識に基づく実現構造がある。それを伝えることではじめて、元々危機を感じた潜在思念は可能性を看取してスッキリできる。
そこでの共認充足が危機や課題に対する追求へ向かわせる活力源になる。 |
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