>しかし、顕在世界=私権世界の秩序の根幹を成すもの、即ち統合機関たる国家や、評価指標たるお金は、いきなり壊してしまう訳にはいかない。それらに代る新しい社会統合機構(統合サイト)や新しい評価指標(投稿資格)が出来るまでは、それらの機関や指標は残り続ける。35272
私権時代では、お金は「もの」や「こと」の価値を計るために使われる。
例えば、車を持つことに対して「必要か否か」の判断は下されず、乗っている車のグレード(値段)がその人のステータスを表し、ステータスが半ばその人間の価値のように扱われる。少なくとも一昔前までは、こういった感覚に疑問を抱かなかった。
家、土地、家具やオーディオセット、時計やスーツや貴金属など、すべてその価格=ステイタスという図式が成り立っていたように思う。
今はどうだろう。若者は車にこだわらない。持っていても軽で十分。持たなくても劣等感を感じたりしない。むしろ豊かさが実現し、環境問題が叫ばれる時代の中で、車に対して「必要か否か」の判断をさらりとする。
それはあらゆるものやことに及んでいるように見える。そうなるとお金のポジショニングが変わってくる。実は、何気ない変化のようで大きな変化なのではないか?
お金は必要であるが、お金の量=価値と言えなくなってきた。お金はなくならないだろうが、評価指標としてのお金の価値は確実に変質してきているようだ。
基軸通貨のドルがどうなるのかという経済界の議論が花盛りだが、ユーロかルーブルか元か?・・・などの議論はあくまでも市場原理というパラダイムの中での話しだ。評価指標としてのお金のポジションの変質は、実はモット深いところの転換なのだと感じる。 |
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