>現実に、(特に仲間関係では)本源充足の可能性が開かれた以上、その可能性の実践的な模索に収束するのが当然で、その代償観念にすぎない感応観念(価値観念や規範観念)はもはや無用となったのである。
とりわけ共認を唯一の武器として進化してきた人類は、異性や仲間や集団との共認充足なしには生きられない動物(実現論2_6_03)。
まやかしの感応観念達が今日まで生き永らえてこれたのも、万人が(せめて頭の中だけでも)共認充足を必要としてきた結果と言える。
逆に言えば、現実に共認充足を得られる可能性が開かれている今、頭の中だけで充足を模造する観念など、必要ない(真の自由?平等?そんな絵空事の追求になんの意味があるのだろう)。
今も昔も、人間は共認(充足)を活力にしている。それは変わらない。
異なるのは、活力の源を頭の中ではなく目の前の現実に見出す、そのために頭を使って考える、ということだ。 |
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