>考えてみれば、史上、社会運動は一度も実現されたことがない。つまり、史上の「社会運動」は全て偽物である。とすれば、「社会運動」の奥には大きな欺瞞が隠されている筈である。(20054 四方さん)
上記投稿や、(164056 渡辺さん)にも書かれていますが、宗教運動から近代の社会運動を含め、全ての社会運動が一度も実現されたことがないという事実を、われわれはもっと直視すべきだと思いました。
これらの投稿を読むまでは、歴史上、誰かが(統合階級)何かを実現しているはずだと思い込んでいました。しかし、そこで行われていたのは、単に、私権獲得を目指した闘い=要求運動であったということ。そこで、実現されたものは、一部の支配階級(私権強者)と多くの非支配階級(私権弱者)という序列原理による社会でしかない。現在のアメリカの例を考えると解り易い。イラク戦争でもそうだったが、「自由・平等」を実現するという名のもとに、戦争を引き起こしながら、結局は自国の私益(石油、基軸通貨としてのドル防衛)を実現する。
それらの運動が、人類本来の集団としての活力(共認充足)ある、統合された集団を実現していないことは明確だ。今までの不全型・否定型の運動では、社会は変わらない。充足型・実現型による運動以外に可能性はないのだと思う。
一方、‘70年以降、人々の意識潮流は、(24980)にあるように、
>私権圧力の衰弱と、残存する私権観念による社会捨象・思想捨象→衰弱する外向欠乏によって、不全捨象の充足基調⇒本源収束の潮流が形成される。これが、’70年代・’80年代である。
人々は、社会・観念捨象、社会不全を捨象することで、充足型(充足基調)でありえた。これは、今までの否定する捨象するとは異なり、大きな可能性である。しかし、それだけでは全く展望がない。社会不全を直視する必要がある。そのために必要なのが答え、新認識である。答えを獲得することで、今までのように社会、集団を捨象するのではなく、対象化することが可能になるのだと思う。
新認識を勉強することの必要性、なんでやの活動で新認識を拡げていくことの意味と役割が明確になった。 |
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