社会運動といえば浅沼稲次郎国会議員が議会中に殺傷された事件や、東大生の樺美智子さんが暴動の巻き添えで亡くなられた事件や、東大の学生運動などが、漠然と思い出されてきます。
今は社会に不満や問題が燻っていても、集団で団結してストライキを実施して、社会の平和運動に駆り立てるほどの意識や闘争心が生まれるほどの個人のゆとりがないのか、あるいは、やっても無意味とあきらめているのか、または、所詮、そんなことは関係ないと思っているのか、現実には人類総国民が、個々に、明るい未来に向かって生活してゆきたいねと考えていても、政治は政治家に任せておけばいいとか言って、でも、いざ、選挙になると、棄権者が多く、それでいて、世の中が悪いとか、こんな社会にしたのは誰とか、暮らしが良くならないとか、不平不満ばかり。常識や正常な物事の判断も破壊されつつ昨今においては社会運動が出来ていた頃のエネルギーをかもしだすほどの、時代がとても、懐かしい。でも、過去の運動ではうまくいきそうにない。
一方では、るいネットサロンの集いのように、社会の問題をテーマに話し合って世代の異なる人同士が研究してゆく場の活動ほうが、社会運動の一環であるように思われる。 |
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