これまで「事実の追求」って言われると、無意識のうちに「一つの答え」を探そうとしていたってことに気付きました!
あるいは何か物事を考えるときに「“事実”や“定義”と違うからこの事象(データ)は使えない」とか。
でもこれって
>その事実ですら、観察者の認識や考え方、さらにはそれに影響を与える背景としての社会的な思想によって左右される危険性があります(2278)<
その“危険性”にどっぷり浸かった考え方だったんですねぇ。
与えられた“定義”や“定説”“事実”を疑うなんて、正直面倒臭かったし、否定するもんじゃないって思ってました。
けど、確かに中身や根拠がちゃんと提示されないもの・出来ないものが事実なはずない!
でもこれって普段の仕事でもそう。
「自分のしている仕事が素人の素朴な疑問に答えられないようでは本物じゃない」と教えてもらいました。
農業だって教育だって工業だって、超難しそうに見える最先端技術だって、素人やお客さんが中身に対して「なるほど☆」って納得できないと、事実・本物じゃない。どこかで誤魔化しているってこと。
(例えば、農業で“有機って何?”“何がどう良いの?”とか)
これでは“必要か否かの判断の土俵”にすら乗れなくなっていく。
そういえば最近の「なんでや劇場」のテーマは“生物史から学ぶ自然の摂理”だ。一見“難しそう”なテーマだけど、論理整合している=素朴な「なんで?」にもバッチリ答えられるからよく分かる♪だから「これは必要だ!」「使える!」って判断できる☆
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