>近世・近代に至って市場拡大という現実(自我・私益の拡大)の可能性が開かれると、現実否定の感応観念の内部に自我・私益が取り込まれ、倒錯観念は自我・私益を正当化した欺瞞観念(恋愛・人間・自由・個人etc)に姿を変えた。20055
「人間」が、欺瞞観念?! そう思って、考えてみると確かに「人間」と言う言葉は怪しい。
原始〜古代の時代を経て、近世・近代になって欺瞞観念の「人間」が出来たのかもしれない。
ダーウィンの進化論あたりが怪しい。キリスト教の神によって「人間」が作られた選ばれた動物であるという教えを否定しながらも、選ばれた「人間」と言う選民(種)意識は引き継いだままである。
あの進化系統図には、「人間」が全ての動物で一番偉くて支配する「権利」を持っているという潜在意識が見え隠れする。そして進化論は、常に進化し続ける人類社会を定義付けて、その後の拡大し続けて止まらない市場経済社会を潜在的に規定してしまったかもしれない。
自然や他の動物を超越した「人間」と言う驕った欺瞞観念は、その延長線上に「個人」「権利」などという欺瞞観念をも生み出してきたように思える。
現実は、「人間」とは他の動物同様に自然に寄生して生きている単なる動物の一種類である。
江戸時代には、太陽や大地など自然に食べさせてもらっている、生かせていただいていると言う、謙虚な意識が有った。その様な意識が有るから人々は「もったいない」という生きていくうえで必要最小限の物で満足すべきである、と言う言葉があった。だから江戸時代は非常に消費量の少ない循環社会が実現した。
人類は「人間」と言う欺瞞観念にて、大きく道を踏み外したのかもしれない。 |
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