'70年、貧困の消滅以降(欧米では'60年代から)、”本当に追及したいことが無くなって終った”(18718)というのは、同時代の「学問」に係わる人間にとっては強烈な指摘であるが、全くの事実だ。
マルクス経済学が近代の資本原理主義を否定した「構造認識」だとすれば、資本主義的豊かさの全面的な肯定を前提とする、享楽あるいは暇つぶしの産物としての「構造認識」が、いわゆる「構造主義」および「ポストモダン」と言われる思想の一派であろう。
この人達は、基本的に言いたいことがない。あまりに暇なので(暇そうにしていると、特権知識階級としての身分が危うくなるので)一つの学問の領域をつくってしまったのである。
彼らの書物は一般の人が理解する事が出来ないような不思議な言葉で埋め尽くされている。何かを伝えるのなら、理解できない言葉で書くはずがないのだが、言いたいことがないので伝える必要も無いのである。
ポストモダンの評論家、ジャン=リュック・ナンシーによるラカンの評論の一部を引用してみる。
「このようにして、勃起性の器官は、それ自身としてではなく、
また心象としてでもなく、欲求された心象に欠けている部分と
して、快の亨受を象徴することになる。また、それゆえ、この
器官は、記号表現の欠如の機能、つまり (-1) に対する言表
されたものの係数によってそれが修復する、快の亨受の、前
に述べられた意味作用の √-1 と比肩しうるのである。 」
健康な精神を持った人なら一顧だにしない狂った文章だが、なぜかこうした支離滅裂な哲学らしきものが、先端の思想として一部でもてはやされていたりしたのである。
敢えて業績を上げるなら(動機は価値の相対化、旧世代の権威の失墜を狙ったものであったにせよ)、前近代的な価値観と偏見に満ちた人類学の分野で、辺境の民族の生き生きとした姿を描写した構造主義学者達だろう。
これら構造主義およびその系譜に連なるポストモダンとよばれる哲学が中身が全くないことを示す事件がある。
これはソーカル事件と言われているのだが、1995年、素粒子物理学者のアラン・ソーカルが、最も人気があったとされる哲学評論雑誌の「Social Text」誌にでたらめな科学用語をちりばめてでっち上げた哲学論文を送りつけ、これが掲載されてしまったというもの。
しかも、この哲学論文に載っているインチキな科学用語や数式は、デリダやフーコーらポストモダンの大物思想家達が自著で用いているものの引用だったのである。
自分たちの世界で言葉遊びをしている分には勝手だが、物理学者のソーカルには、社会学にでたらめな科学の概念を紛れ込ませることに我慢がならなかったらしい。
もっと顕著なのは芸術や音楽などの分野におけるポストモダン的試みである。もともと、美しかったりきれいだったり心地が良かったりするものを愉しむものだったのに、ポストモダンの旗手と呼ばれる人たちは、まずそこを否定することから始めるのである。
音は、それらの物理的性質によって調和し、美しいハーモニーを奏でるように(あるいはそれを人間が美しいと感じるように)出来ているのだが、いかに調和しない音を選ぶか、あるいはいかに退屈な音楽に仕上げるかに苦心を注ぐのが現代音楽と呼ばれるジャンルである。
そうやって出来た奇妙な音楽を「先駆的実験」などと評論家が賛美し、判っているつもりになっている人たちが大勢にやってくる。しかし、演奏が始まると、最初は小難しそうな顔をして聴いているふりをするのだが、大抵は耐えられなくなって寝てしまうものだ。
昨年亡くなった世界的にも著名な指揮者、岩城宏之は、現代音楽を初演で振る時は、オーケストラに「どうせ適当にやっても誰も判らないんだから間違えても気にするな」と指示していたそうである。このおかげで全く理解不能な譜面に、演者は安心して取り組めるというわけだ。一般には、岩城は難解な現代音楽を初演することの多い、野心的な指揮者として知られている。
もちろん、こんな異様な世界は一般大衆からは相手にされていないのだから存在自体が意味がないとも言える。しかし、彼らは権威の頂点とされる大学やその他の特権階級に居座ってその場を手放そうとしないのであり、これは明らかに社会的な害悪であると言えるだろう。 |
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