そして、いくら闘争課題が第一義でそれに共認しないメスの自我が集団にとって致命的とはいえ、メスを放り出す(生殖を放棄する)ことはあり得ません。ましてや、ボスにとってメスとの期待応望充足は、もはや手放せないほど大きくなっています。(ここでも、性闘争存在・性的(充足)期待存在として、外圧の低い環境ではメスに迎合せざるを得ないというオスの悲しいサガは、現代と同じです。)
そこで、それを受けてボス(および他オス)は、メスの男女充足共認を充たしつつ集団の一員としての役割規範へも収束させるよう、「メスのボスに対する性的応望は、闘争集団にとっても役割として存在する」という“男女役割規範”を確立し共認していったのではないでしょうか。
オスメスどちらにとっても、このとき初めて、原猿時代の“男女充足共認(オスメス間の期待応望充足)”から、“男女役割共認(オスメス役割規範)”へと昇華したように思います。
(また、これは上記の仮説に基づいた上での仮説ですが、互いの意識にズレの生じるこういった状態では、他のオスとの期待応望関係どころか既にボスとの期待応望関係も不充分になってしまっていると考えられます。だからこそ真猿のメスは、ボスの目を盗んでは自らの性的充足を満足させるべく規範を破って他のオスとも関係をもっていたのではないでしょうか。)
>実現論P.18の下から3行目から、人類は、極限時代、想像を絶するような過酷な自然圧力・外敵圧力に直面したことが書いてあります。
人類になってからは、矢野さんとほぼ同じ解釈です。
自らも外圧に晒されて初めて、本当の意味で、集団の有難み・闘争共認の意義・オスたちに対する感謝・ボスに対する尊敬etcが肉体的にも規範的にも共認できるようになったのだと思います。 |
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