『巣鴨釈放:「いまや、われわれは民主主義者だ」、「復活」のお披露目はCIA高官との歌舞伎座そろい踏み、エージェントの情報で国会での「反乱」を阻止 CIAに「恒久支援」を求める CIAに金で買われた岸信介首相 賀屋興宣氏も手先に ニューヨーク・タイムズ紙のティム・ワイナー記者 ピュリッツアー賞受賞の近著、『灰の遺産 CIAの歴史』で暴露』(机の上の空 大沼安史の個人新聞)リンクより転載します。
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「岸信介はCIAの助けで日本の首相になり、支配政党の首領になった」
ニューヨーク・タイムズ紙のティム・ワイナー記者の近著、ピュリッツアー賞受賞作、『灰の遺産 CIAの歴史』に、こんなとんでもないことが出ていた。
「CIAの秘密の武器は……冷たい現金だった」という書き出しの、同書の第12章。
〜中略〜
それでは、ワイナー記者は、『灰の遺産』第12章で、どんな「事実」を暴露しているか?
この章でワイナー記者は、岸首相とともに、児玉誉士夫についても書いているのだが、ここは岸信介氏に限って、主なポイントを列挙しておこう(敬称略)。
@ 日米開戦後の1942年、岸は軟禁中の米国大使、ジョセフ・グルーをゴルフに招いた(聖戦中に岸はなんと、敵性スポーツのゴルフをしていた。それも鬼畜の大使と!)。二人はそれ以来、友人になった。岸が戦後、巣鴨から釈放されたとき、グルーはCIAのフロント組織、「自由ヨーロッバ国民委員会」の初代委員長だった。〔大沼・注〕つまり、影響力を行使できる立場にあった」
A 岸は巣鴨から釈放されると、まっすぐ首相官邸に向かった。官房長官の弟、佐藤栄作がスーツを用意して待っていた。「なんかヘンだね」と岸は佐藤に言った、「いまやわれわれは民主主義者だ」
B 岸は「ニューズウイーク」誌の東京支局長、ハリー・カーンから英語の手ほどきを受け、米国の政治家を紹介してもらった。カーンはアレン・ダレスの親友で、CIAの対日パイプになった人物だ。
C 1954年5月、岸は東京の歌舞伎座で政治家として復活を果した。岸は歌舞伎座に、米国大使館でCIAの情報・宣伝担当をしていたビル・ハチンソンを招いた。幕間、岸はハチンソンを連れ、日本の特権層の友人たちに彼を紹介して回った。それは岸の政治的な劇場となった。アメリカの後ろ盾があることを公的にアナウンスしたものだった。
D その後、1年にわたって、岸はハチンソンの自宅の居間で、CIAや米国務省の担当者と秘密裏の会合を続けた。ハチンソンはこう証言している。「彼(岸)は明に、アメリカの少なくとも暗黙の支持を欲しがっていた」。この会合で、その40年間の日米関係の土台が築かれた。
岸は支配政党の「自由党」を躓かせ、名前を変えて再建し、それを運営したいと言った。彼はまた、日本の外交をアメリカの欲望とフィットするかたちに変更することを誓った。その代わり、米国の秘密の支援がほしいと岸は頼んだ。
E ダレスが岸に会ったのは、1955年8月のことだった。ダレス国務長官は、一対一で岸に、支持を期待していると言った。日本の保守層が一体化し、共産主義と闘うアメリカを支持できるかどうか
聞いた。
F 岸は米国大使館の高官であるサム・バーガーに言った。若くて地位の低い、日本で知られていない人間を、連絡役にするのがベストだと。お鉢は、CIAのクライド・マカヴォイに回った。マカヴォイは沖縄戦の経験者で、フリーで新聞記者の仕事をしていた。クライドが来日してすぐ、バーガーは彼を岸に紹介した。これにより、CIAの外国政治指導者との関係のなかでより強固なもののひとつが生まれることになった。
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続く |
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