「何のために仕事をするのか(しているのか)」という問いは、就職活動中の学生や新人社員、中堅、経営層、そして定年を迎えた人達であっても、それぞれの立場で、自問自答する機会が必ずあると思う(無意識であっても)。
しかし、その答は「それぞれの立場で自問自答」している限り一致=共認されるはずもなく、それではもう活力が維持できない。だから場は統合されない。
社内の人材問題や組織ぐるみの不祥事が後を絶たないのも、納得がいく。
フリーターやニートが社会問題化するのも、同じ理由からだろう。
>新しい可能性は、現存する同類闘争の場(=市場)の中で、現存の評価指標(=お金)に則って現実の必要が認められ、勝ち抜いてゆくことによって、はじめて既存の全てを自らの下に収束させてゆく新しい最先端機能であることを、人々に証明することが出来る
この一文を読み、改めて「何のために仕事をするのか」を考えさせられた。「自分さえ良ければ」が活力源にならない今、誰もが新しい可能性=活力源=収束先たる統合軸=答が何なのかを探し出そうとしている。
法人個人問わず、様々な相手との意識のやり取りを通して新しい可能性を探し出し、収入=評価をもって確信を得る。今、誰もが欲する機会が、仕事という行為の中にはあると思う。
その確信は、最初は狭い対象との間に留まったものかもしれない。しかし評価を積み重ねていく中で、その対象は広がっていく。
>新しい認識欠乏⇒認識闘争は、古い私権欠乏⇒私権闘争では何事もうまくいかないという現実に迫られて初めて生起します。それに応え得る認識は、古い現実世界で生きる必要に迫られながら醸成されるはずです。(35906)
新しい可能性を顕在化させ、新しい評価指標を作り出す。
そのために私たちは古い現実世界(市場)に身を置き、仕事をするのだと思った。 |
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