>『一般企業より劣るマスコミ業界による社会認識に何の価値があるのだろうか?』(153492)
上記投稿を読み、マスコミ業界が現実圧力に適応していない状況がよく分かりました。
>そうなれば、従来の私権的なるものの全ては(身分もお金も、あるいは物財も解脱も)、改めて『必要か否か』という土俵上で真っ当な判断の洗礼を受けることになる。(例えば、これまで闇に隠れていた役人の「不祥事」が、次々と明るみに引きずり出される様になってきたのも、この『必要か否か』という真っ当な判断の土俵が形成され始めたからであり、先に触れたマスコミ主導の「ワールドカップ」フィーバーに感じる寒々しさも、その土俵上での最先端の感覚である。)
つまり、『必要か否か』という最基底の、それゆえ真っ当でシンプルな『判断の土俵』(=新しい演場の基礎)が出来てくると、国家も市場も全面的にその土俵の上に乗らざるを得なくなり(∵逃げ道はない)、そこでの評価指標=身分やお金は『現実に必要か否か』を表わすモノサシに変質せざるを得なくなる。(33995)
ここ10数年においても明らかなように、もはや不要とされるものは淘汰されていきました。例えば、携帯電話の普及により、家庭の電話は無くなりつつあります。
同様に、新聞やテレビが本当に必要かというと、情報においてはネットなどの媒体が存在するし、かつて一時的に必要であった共認充足に代わる娯楽という役割は、既に無くなった事からも、もはや不要であると言えるように思われます。
※情報のリアルタイムという意味では必要性はありますが、録画などの利用増加や他の手法で補えるのも事実です。→本当に必要とは言えない。
※娯楽の役割が本当に必要であったのは、貧困であった私権時代の村落共同体(共認充足)の喪失から来る大衆の解脱共認欠乏があったからであり、テレビがそれを補う必然性は無くなりました。→本当に必要とは言えない。
現状の報道・情報の質(中身)ではもはや現実に適応できないのでは無いでしょうか?
>「既に、新聞よりもネットの方が利用時間が大きくなっている。更なるネットの可能性に期待できる。」(151895)
からの数字でも明らかなように、既にその兆候があります。
マスコミ業界は、これから大衆による「必要か否か」の真っ当な判断の土俵に上げられる立場にあるのだと思います。 |
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