確かに、自分を振り返っても、”必要かどうか?”という判断は、日々あらゆる場面で行っているように思います。
中でも、一番優先される判断軸となるのは、モノを買うとき。
食事なんかはあまり必要度を判断せずに食べていますが、ちょっとしたモノ(=物財)を買うときは、どんなにつまらないものでも”必要か否か?”の判断基準が生起します。
何か良さそうなものを見たとしても、この判断軸に立ち戻れば、ほとんどのモノはあまり必要でないことに気づかされます。そして、実際にそれを手に入れなかったからと言って、特に何も起こらないのです。
結局は、それは必要でなかった、と言うこと。
この行為が、貧困が消滅する'70年以前では、あまり一般的ではなく、専ら”買えるかどうか”、つまりは”買えるモノだったら何も考えずに買っていた”というのはある意味驚かされることです。
しかも、当時のテレビや洗濯機など、家電製品などは今とは比べものにならないくらいに高い。
例えば洗濯機の値段は昭和32('57)年で約2万3000円。
給料が今の1/20くらいの時代だから、43万円くらいということになります。現在の国産の全自動・乾燥機能・インターネット接続機能まで付属したドラム型最高級洗濯機でもこんなに高いものはありません。
43万円の洗濯機を今買うかどうか悩む人はあまりいないでしょう。必要な人は買うだろうし、逆に、お金をやりくりして苦労して43万円の洗濯機を買う人もいない。必要ない人は洗濯機などいらない、という人もたくさんいて、これらの人々は、まさに”買えるかどうか”ではなく、”必要か否か”の判断をしているのです。
現在、物財の購入場面ではこのように”必要か否か”の判断軸はあまねく普及していますが、新しい認識の必要度にせよ、解脱の必要度にせよ、まだまだ”自分にとって必要か”という判断にとどまっているのが現状です。
仲間のために、社会のために必要か?という判断の土俵に上がって初めて、新しい演場が形成されるのだと思います。
>物的商品」も「遊興・芸能」も、「新しい認識」も、
>全てが同じ土俵上で判断されることになる。こ
>の土俵こそ、人々の真っ当な共認が形成して
>ゆく新しい場=演場(の基礎構造)に他ならない。
この期に及んでは、未だに溢れている数多の不要な物財や、マスコミが扇動する何かのブームや一時だけのイベントなどは、人々の必要か否かという判断によって徹底的に駆逐されるでしょう。
それは、当然、市場の崩壊を意味し、従来の消費経済活動は成り立たなくなることを意味しますが、一方で、自分のためだけではない、社会のための真っ当な共認が生まれる契機になるのではないか、と思います。 |
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