先日のなんでや劇場で、幻想共認のもたらすメカニズムについて改めて気づきがあった。それは「幻想価値自体の原資としての力」だ。
ある“磨くと少しだけ光る石ころ”に「百万円の価値がある」という幻想共認を成立させたとする。その幻想価値は古代商人たちが支配者層から、彼らの持つ富の一部を掠め取るための道具となった。これ自体インチキ手品のようなものだが、実はそれだけではない。
新しい幻想価値を手に入れた者は、同じ価値体系を共有する他の人間に、“より多くの労働をさせる力(原資)”を手に入れたことになる。それは必然的に力も幻想を捏造する術も持たない者、例えば具体的には農民や職工たちに向かっていく。農民や職工たちも、その価値を共認した以上、自分たちの労働との交換に応じるほかない。すると、幻想価値はその原資が増えた分だけ、同じ社会の中での私権格差を拡げるテコになっていく。
つまり、幻想共認に基づく価格格差の成立とは、「支配者の富を掠め取る」抜け道のメカニズムであると同時に、「市場社会の下層の者をこき使う」格差拡大のメカニズムでもある、ということだ。
しかし、古代国家の枠内、あるいは中世の域内交易の枠内では、その幻想価値の力には限界があって、域内での人口の増加分と、その人口の中で可能な生産性の上昇分までしか、幻想価値のテコは機能しない。従って、拡大の限界が訪れれば、或いはよりうまみを得ようとすれば、ある段階で自分たちの市場世界に新たな住人と新たな原資を取り込まなければならない。それが、15世紀に起こった大航海時代=植民地時代である。
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