そこで、文字のなかった時代の言葉だけの共認状況を調べてみました。アメリカインディアンの口承史(一万年間)には、文字のない時代に、彼らが乗り越えてきた様々な外圧とそのとき獲得した知恵を次世代に伝えるために、毎日車座になって話し合うのです。
それは、今で言う歴史の伝承にみられる、現象を記憶にとどめるだけの行為とは大きく異なり、その体験の辛さ、みんなで乗り越えたときの充足感などが、非経験者も追体験できるくらいの交歓の場であったようです。その様子は下記のようであり、
『そこで、一族の中には、苦労のすえに学んだ知恵をうかつに失うことは、二度とすまいという、大きな決意が生まれた。彼らは互いに歌いかけた。われらが思いと呼ぶ(ところの)心の模様のこと、また〈火を囲む輪〉に集まるたびに、それらの(心の)模様が新しく織り直されるかもしれないことを。
「一万年の旅路」より引用』
お互いの心が共感するまで、何度も何度も歌を歌い続けていました。そして、歌とはリズムのついた語りで、体験者みんなが共感できるまで推敲されていました。心の模様とは、言葉以前にそれぞれが感じた、対象に対する認識で、これを互いに確認するために言葉を補足的に使っていたようです。そして、その語りは、毎日長時間にわたり行なわれ、そのこと自体が集団の共認を高める最大手段になっていました
>そこで発揮される対象把握能力が言語で説明できるレベルを超えたものだ(つまり言語自体が限界を持っている)と考えれば、それが単なる擬似感覚ではなく、後から科学的に検証しても正しいことが多いというシャーマニズムの不思議さも理解できるように思います。(13951 田中素さん )
という田中さんの意見にもあるように、集団の統合者であるシャーマンも上記の言葉以前の集団一体感覚を利用して共認形成を図っていたのではないかと考えています。そして、そのような一体感覚は時間を共有することで達成させるということも、重要な条件ではないかと思っています。
この二つの要素『一体感覚』と『共時性』は、現代社会の共認に最もかけているものだと思います。文字による共認の効果を最大限引き出すためにも、それを支える共時的一体感覚の再生法を考えていく必要があると思っています。
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