>考えてみれば、つい最近(前世紀)まで、お金の使い道は、物財か解脱と決まっていた。つまり、それらは当然「必要(有益)」なものに決まっていた。だから、殆どの人はそれを『買えるか、買えないか』としか考えず、それが『必要か、必要でないか』などと考えたことも無かった。(33821)
>それは、云うまでもなく、私権の強制圧力の故である。私権の強制圧力は、単に主食品のような必需品に対してのみ(=本能を直撃する様な圧力としてのみ)働いていた訳ではない。むしろ、重要なのは、私権の強制圧力が作り出した人々の共認(内容)である。(33821)
改めて「必要か、必要でないか」という認識に気付き、私権時代が如何に(人々の共認が)歪んだ時代であったかが良く分かった。
私権時代という圧力は人々に可能性の無い共認を植え付け、時代に応じて様々な解脱収束先を創出させてきた。私権時代の終焉→私権観念の崩壊と共にようやく「必要か、必要でないか」の判断軸の土俵が創出された(本来私権時代以前は持っていた機能だ)。
「必要か、必要でないか」という共認は、明らかに真っ当な社会(脱私権の新たな時代)に向かっている事を意味する。今必要なのは、この真っ当な流れを断ち切らないよう、皆に伝え続けていき、次の収束先の認識形成の場へと導いていく事だと思う。 |
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