>縄文人の自然崇拝の宗教観は、田中さんの記事にもあるように、豊かな胸と豊満な下半身を表す土偶 にも地母神信仰的なものとして汲み取れると思います。
土偶については多様な説が唱えられており、地母神説は最もそれらしい説ですね。
地母神説:「 土偶が表していた母神とは、人間の生活に必要なすべてのものを、生み出してくれる母なる大地を神格化した、大地母神だった。作物を栽培することが始まると、人間は、その作物を自分の体にほかならぬ地面から生え出させてくれる地母神に対して、よりいっそう強い信仰をもつようになる。それで里芋などの栽培を始めた縄文時代の中期の人々は、その地母神である土偶をそれまでよりもずっとたくさん作るようになり、いろいろな工夫をして入念に作るようになった。」 (吉田敦彦)
つまり、増殖のシンボルとして女性・女神をイメージしつつ、根源的な生命力を素朴に、しかし力強く表現したものとして土偶をとらえているわけです。しかし現代でも、人形は観賞用・愛玩用に限らず、祭り・儀式で用いられたり、「呪いのわら人形」といった呪術的用途も消えたわけではなく、実に多様な目的で用いられます。縄文期も決して一様な文化が長期にわたり停滞していたのでないことは明らかで、土偶も時代・地域によって用途がさまざまだった可能性もあります。したがって
梅原猛説: 土偶は妊娠中に死にいたり、無念にも子どもを出産できなかった妊婦の無念を晴らし、同時に生をうけることなく死んでいった胎児をあの世に正しく送り返すための儀礼である。
呪術説:のちのヒトガタ(人形)のように人の代用品として、病気の治癒や呪いのために用いられた。
などの説も十分ありうると思いますし、逆に一つで土偶すべてを統一的に説明できる説も出てこないのではないかと思っています。最後に、以前の投稿の繰り返しになりますが、小林達夫の魅力的な説を紹介します。
>土偶を女性と決め付けて少しも疑いをいれない大方の先入観からまず開放される必要がある。乳房の 表現を、女性の象徴とだけ考えてはならない。・・・大きくて豊かな乳房の表現は、山形土偶や遮光 器土偶の中でもその一部の型式に見られるにすぎず、けっして多数派ではない。・・・
>したがって土偶は女性でも男性でもなく、また縄文人が己れの形を写したものでもなく、おそらくは 性を超越した存在のイメージ、すなわち何らかの精霊の仮の姿、と見られるのである。さればこそ、最古の土偶をはじめとする多くの土偶が、いかにも曖昧な形をとるのである。それは、もともとヒト形の必然性がなかったからであり、ヒト形に似たのは縄文人の考えあぐねた末の苦肉の表現なのである。
顔の表情を具象的に表現するだけの技術は持っていた(火焔土器の高度な技術を見ても明らか)にもかかわらず、なぜ土偶の顔はかくも曖昧なのか、この説はそれに対する答えとして、核心に迫っていると思われませんか。少なくとも初期の土偶は、「まさに現象世界の背後に直観した不可視の精霊のイメージを、彼らなりに、精一杯、形而下の世界へと持ち帰った結果」だと思えてしかたないのです。
|
|