田中さんの『原基構造の不変部分と可変部分』という投稿から、ふと、最近メディアが取り上げている高校必須科目(≒世界史)の単位不足の件が頭をよぎりました。
現在の歴史系の授業は、文字通り『可変部分』しか教えていません。しかもその『可変部分』があたかも『不変部分』であるかのように子供たちに刷り込まれていきます。その結果、現実を見る目は‘不可能視’という曇ったガラス玉になり、未来の可能性を凝視しようにも、それは‘願望’と‘絶望’という架空世界を彷徨うだけで、一向に焦点を結びません。
各地の進学校でたまたま今回のような問題が表沙汰になったこの機会に、本来ならば「これまでの歴史教育は本当に必要だったのか?」「必須教科にふさわしい歴史教育とは何か?」あるいは「学校で教える歴史に魅力が乏しいのはなぜか?」などを、本格的に掘り下げてみればいいのに・・・と感じるのは私だけではないと思います。
人類史であれ生物史であれ歴史を学ぶ意義は、『不変部分』と『可変部分』を峻別できる構造認識を修得することに尽きます。しかし、現在の(というより文明時代以降の)統合階級には、この最も重要なことがまったく理解されていません。考えてみれば、文字が発明され歴史書が世に登場したのも、特定の集団や民族やその思想を讃美する物語を後世に残すためです。そして教科書もこの枠組みに完全に絡めとられ、決して事実体系を示す書物にはなっていません。これでは、今日のようなパラダイム転換の時代を迎えると、未来への示唆どころか閉塞した旧い時代の自己讃美に過ぎないことが誰の目にも明々白々になります。
今人類は、歴史を学ぶ意義という原点から再出発する必要に迫られています。それは同時に、これまでの歴史観をすべて放棄し、事実体系としての構造理論(≒おもしろい+役に立つ歴史書)を自ら創り上げていくことを意味しています。
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