>少し前に議論されていた、過剰消費の動機=代償充足と、それに代わる共認充足という視点がここに必要になってきます。充実した共認充足が、過剰を必要としない状況を作り、その共認充足の場が、新しい集団をつくってゆくのではないでしょうか。
人が生活を行う上で食料やエネルギーを消費するのはやむをえないし、必要最低限の部分については消費することを前提に焼却やリサイクルなどの処理方法を中心にその対応を考えざるを得ないでしょう。
ただ、この掲示板で皆さんが「過剰消費」と呼んでいるものについては、大幅に削減が可能ではないかと思います。
>面白い事に、私はデンマーク滞在中、「あれが買いたい」「何が食べたい」という欲望を、あまり感じなかった。むしろ、バスの中で目が合った老婦人と微笑みを交わし、自然と調和した美しい赤レンガの街並みを歩き、図書館で読めそうな本を探す事に精神的な充足感を覚えた。そして、言葉を交わした多くのデンマーク人の、親切で温かくフランクな態度(中略)に触れた時、私は人間が人間らしくあるとは、どういう事なのかを、つくづく考えさせられたのである。
(以上は、佐賀で環境問題取り組んでいる藤沢裕美さんのレポートから引用)
上記のような感覚はいまや多くの人の間で共有出来ると思いますし、そのことはとりもなおさず過剰消費に起因する環境問題に対する意識と共に、その代償としての自然充足・共認充足に対する欠乏が人々の潜在意識においてかなり高まっていることの証明であると思います。
あとは、馬場さんが指摘されたように社会においてそのような充足の場・新しい集団をどのように創るかと、どのようにしてその場に人を集めるかだと思います。 |
|