・・・従来の親和を主軸とする関係ではなく、あくまでも新しい認識を巡る期待と応望の信頼関係であれば、互いに自ずと『認識の必要』を共感し、認識課題を共有した認識仲間となる。そこまでいけば、次は自ずと『勉強の必要』の共認に至るだろう。
この投稿の「・・・認識仲間となる。」ところまでは、実感としてあり納得できたが、その後の「『勉強の必要』の共認に至るだろう」って実例は?実感としてどんな感じ?と思ったが、言われるとたくさんあることに気づかされた。表面的な行動なら知識がなくても決められた事をそのまますれば良いがその行為には自信もなく、真の意味も感じず、責任も持てない。本当の共認という行為はその共有する認識の中身がなければ成り立たないし、仮に表面的に成り立ったとしても中身のない上辺だけの共認なので、その先に可能性はない。認識仲間が可能性をもって進むには、それなりの知識がいる。それが「勉強」に繋がる。そうやって考えると、周りにはそれを実感させる事例はたくさんあったし、この会議自体も事例の一つだと思う。 |
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