「共同体」と言うと、人と人との繋がり、共同生活・生産、などを思い浮かべるが、どうもそれらは、本来の共同体を失った現代人が使う薄っぺらな概念のように思えてきた。
>そして「八百万の神々」と言うとき、そこにはキリスト教における神のように全知全能であるものを想像するわけではないだろう。さまざまな対象に神が宿るというのは、自然の中で神さえも己の役割を持っているものであり、万能ではないという思想を示す。神さえも集団で存在するというのが古来の日本人の考え方なのだ。3606「八百万の神々の「分」」
人類の知恵を結集すれば、不可能なものはない。だから、みんなひとつになって新たな文明を作り出して行こう、というのは、「人は何かを成す為に存在している」という西欧的な考えに洗脳されてきた考え方ではないか、ある意味、傲慢な言い方だとも言える。
>この『注視する』という行為の中で始原人類は、対象の中に自分たちの期待に応えてくれる(=応合してくれる)“何か”(=可能性)を懸命に探索するだけではなく、同時に、対象が自分たちに期待している“何か”(=これも可能性)を、やはり全身全霊をかけて発見しようとしたのではないかと感じています。104670「『精霊』とは『期待意識』でなく『応合意識』」
真猿時代に形成された、同類を対象とした共認機能を、自分達を超えた現実対象=自然に対して作動させることにより、その中に自分達に語りかけてくれる何か=精霊を見、同類と同じように期待し、応合する対象としてその存在を認識することができたのであろう。
すなわち、共同体とは、目の前だけにいる同類対象(個や集団)を越え、現実に存在する身の回りのあらゆる対象を、生きていく上での可能性を与えてくれる同化対象だと捉え、自分達が生存していく為の実現基盤として肯定視できる共通の観念(精霊信仰や事実観念)にまで引き上げ、それらを共認している集団、であると言えるのではないでしょうか。
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