>市場拡大によって職場と家庭が分断され、かつ家庭が絶対不可侵の聖域となった(例えば、よく「企業が悪い」「学校が悪い」と糾弾されるが、「家庭が悪い」と糾弾されることは殆どない)ことによって、家庭には何の圧力も働かなくなり、その結果、家庭は子供を教育する資質をほぼ全面的に喪ってしまった。サラリーマン家庭が孕む教育不能という問題の深刻さは、当分の間は、まだ農家育ちの祖父母や両親が居たお陰で、顕在化してこなかった。しかし、農村から都市への大移動がほぼ終わった'70年以降、その致命的な欠陥が徐々に露呈され始め、とりわけ老人と共に農家時代の諸規範が家庭から消え去った'90年以降、若者たちの間に心の欠陥児が急増し、子供の精神破壊が恐ろしいスピードで進行中である。(実現論9_2_03 実現論 ロ.肉体破壊・精神破壊と市場の拡大停止)
先日、京都で「なんで屋」をやっていた時に、子育てを終了し、余暇を持て余している2人組のおばちゃんに出会った。
そのおばちゃん達の最近の話題はもっぱら社会の時事ネタらしく、かなり昨今の「幼児虐待」や「精神欠陥の子供達」の事を心配している様子でした。
おばちゃん達にとって、数年前から言われ出した「公園デビュー」なんてこと自体が到底考えられなかったらしい。なぜ周りの人たちとの関係をもっと築く事が当たり前にできないのか?と疑問にあがった。
そこで、
>生産集団である共同体を基盤とし、その共同体を維持するための規範に基づく行動が残存していたといえます。共同体を構築し、維持するには生産・闘争過程だけを共同にするだけでは不十分で、子を育てるといった生殖過程も包括しなければいけないことをあらわしています。また、誰の子というこだわりなく育てていくことで女性の自我も自然と抑制される、または自我が萌芽しないといったほうがいいかもしれません。(24993 槇原さん)
子育て規範や共同体が解体されて以後、子育て環境は社会環境と共に変化し、今では母親自体が、
@周りへの肯定視が無い
A自分自身に自信が無い ⇒人間関係の不足
B他者否定(信頼が無い)
の「3無い」になってしまった。結果、誰も近くに信頼できる「仲間」がおらず・できず、母親(女)の不全ばかりが高まっている。
とはいえ、子育て課題は緊迫した課題であり、どうにかしないといけない、その結果、その不全を少しでも共有できる仲間を求め、公園であったり、サークルであったり、目先に必死に収束しているのでしょう。
しかし、これでは何時か破綻をきたすのは目に見えている。
彼女達の不全の本質部分の「答え」槇原さんが(24991)(24993)で挙げておられるように=安心できる「場」・「体制」作りなのだと思います。(ここが子育てにおける男の役割なのでしょう。)
潜在的にこのままじゃ「まずい!!」って思うからこそ、古きを知るおばちゃん達は、親子関係を越えたところで「自分達の「子育て」経験の伝授を彼女達から求められるのならば、いくらでも提供する」と、母親⇒母親、母親⇒社会へと何らかの形での役割を求めているようでした。 |
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