とりわけ、最悪なのは、未明課題を突破すべき長時間会議が、定例化されているケースである。そうなると、答えを出せない大半の指揮官の下で、もたれ合いorぶら下がりが常態化する。それどころか、もっと恐ろしいことに、(何であれ対面会議は、何らかの共認を形成するので)当初の課題からズリ落ち、劣化した方針の共認が形成されてしまう。(101335、岡田淳三郎さん)
仰るような弊害があると言うことは確かだと思います。国会中継とか見ていると、特にそう思いますね。確かに、法的には会期延長が認められていますが、それは日常化するほど必要なのか?
より一般的な話をすると、3時間で終わると予告されていた会議や討論会が4時間5時間かかることがままある。これは、ぶら下がる(あるいは傍観者と成り果てた)聴衆・兵隊と持っている能力不相応な期待を押し付けられた司会者・トップの逡巡という構図の証拠と言っても良いでしょう。
>これまで、人々は、ホームルームから国会に至るまで、民主主義といえば「会議」と思い込んできた。ところが、どの会社でも、対面会議は上からも下からも嫌われ、厄介物となっているのが現実である。それも当然で、これまで述べてきたように、対面会議には様々な構造的欠陥が刻印されており、そろそろ民主主義=会議という固定観念を見直すべき時がきたように思う。(101335、同じく岡田さん)
憲法学・行政法学において、「特別権力関係論」というのがある。@ 公権力は包括的な支配権を有し、法律の根拠なくして当該関係にある私人を規律出来るA 法律の根拠なくして当該関係にある私人の人権を制限出来るB 当該関係内部における公権力の行為には、原則として司法審査が及ばない、とする理論を言い、具体的には、公務員、国立大学学生、在監者、強制入院患者などを想定した議論(元々は、軍事組織の管理と言う観点から生まれた議論らしい)です。で、その弊害としてよく挙げられるのが、例によって「人権抑圧」です。
確かにそういった側面もあるかもしれない。しかし、それは特別権力関係の当事者の一方が「傍観者」に成り果てているからでしょう。
おそらく、本来の意味での「特別権力関係」というのはそういったものではないはずです。例えば、トップと兵隊がいるという場合、作戦遂行に際しコミュニケーションが必要であり、そのなかで兵隊が色々意見具申する。これに対して、トップが判断を下す。あるいはそれは変わらない。そんなときに、「責任は俺(トップ)がとる。お前らは無二念に作戦を遂行しろ。それをしないときは、容赦なく処分する」というものなはず。本当に処刑したり、解雇したりというのは伝家の宝刀であり、めったに使うべきではないけれども、その点に留意すれば、極めて真っ当な議論ではあると思います。逆に言うと、何でもかんでも「人権抑圧」というのは、実は甘やかしているだけと言うことです。
「民主主義=会議」という構図が出来上がった背景の一つに、このような「特別権力関係」に対する一方的な理解が蔓延したということも挙げてよいでしょう。会議をどれだけやったとしても、「ファイナルアンサー」の時は近づく。じゃあ、会議でもして体裁だけ作って、責任回避の用意はしておこうか…、との動機が働いているかもしれない。
確かに、「特別権力関係」というのはやや過激な議論で、何時も辞表を用意しておけ、ということになりかねない(というか、それが本質ですが)。しかし、権利の前には義務があるということを考えると、それは当たり前ではないでしょうか?
それができないのは、上も下も「傍観者」になっているだけ。会議をやるにしても、上は決断するだけの、下は意見具申するだけの勉強が必要。兵法上の古諺「勇将の下に弱卒なし」とはそういうことじゃないでしょうか。
注;個人的には、「人権」という概念も一定程度必要だと思いますが、そ の前に「義務」があると言うのが私見です(勝手に誤解されている方 がいると怖いので、念のため)。決して、「人権派」ではないのでご 安心を(笑)。
最後に、良い言葉を載せることで、締めくくりとさせていただきます。
一、省益を忘れ、国益を想え。
二、悪い、本当の事実を報告せよ。
三、勇気を以て意見具申せよ。
四、自分の仕事でないという勿れ。
五、決定が下ったら従い、命令は実行せよ。(後藤田五訓)
これを決まりとして、実行する人は「大したことがない」かなぁ?(笑)
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