民主主義=会議という固定観念に囚われてきたのは、「民主主義であるから、みんなが平等に参加できる権利が保障されなければならない、それを保障するのが会議である」というような固定観念があったからではないかと思う。
そのような考え方が固定観念化されたのは、序列原理に支配された社会では、現実問題としてはみんなが平等に参加できる場や機会がほとんどなかったからである。現実的にはあり得ないことなので、そのアンチとして、あるべき形が理想化されたものにしか過ぎない。その意味では、単なる現実捨象の価値観念(観念論)に過ぎなかったと言ってもいいだろう。
しかし、価値観念を取り除いて、冷静に現実を直視するならば、指摘されているような様々な対面会議の欠陥が見えてくる。未明度の高い課題であればあるほど、必然的に課題共認の温度差が生じるのが現実であり、答えの出せそうな人間が集中して追求したような一定の叩き台がないと議論にもならないのが実態である。現実の闘争世界は徹底した共認闘争の世界であり、みんなが平等に参加したからといって必ずしも答えの出せる世界ではない。にも関わらず、そのような現実は捨象して、みんな平等に参加しなければならないという固定観念に嵌って、それ以上追求しようとしないから、いつまでたっても答えは出せないし、会議へのもたれかかりやぶら下がり、劣化収束や私的共認等の欠陥ばかりが露呈してゆくことになる。
民主主義とは、本来は共認原理の政治的表現には違いないと思うが、共認原理は、徹底した事実の追求とそれによる構造認識(統合観念)なしには決して実現されないものである。単なる価値観念(観念論)という生っちょろい観念で実現できるものでは決してない。言い換えると、構造認識に基づく確かな答え(の見通し)があってはじめて、末端に至るまでの課題共認が成立するというのが、共認原理の厳然たる構造である。その意味では、民主主義=会議というのが固定観念にしか過ぎないという認識は、徹底して共認原理の実現を追求してきたるいだからこそ到達できた認識であると言っても過言(手前味噌)ではないだろうと思う。投稿を読んで、今までいかに生っちょろい観念論で誤魔化してきたかを自戒させられた。
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