中・高の「公民」・「政経」の教科書に、「人権思想の発達」・「民主主義への道」関係の単元でまず置かれるのは、古代ギリシャのポリス社会での「民主制」である。成員がアゴラ(広場)に集まり、その「会議」で政治を、ポリスの方針を決定する、ただし女性や奴隷は含まれず、今日の民主制とは異なっているという風に定義・説明される。
古代ギリシアでのポリス成員ーつまり市民と定義されるのは、実質的に生産と防衛に携わり得る者ー自由民の成人男子であり、アゴラでの「集会」は差し迫った問題ーたとえばペルシアとの戦争に関してであり、籤引きによる官職分担も狭小な範囲でそれぞれが当事者たりうるゆえであった。しかし、アテネでいえばその「覇権」の伸長により、会議云々はなくなり、独裁に移ってゆく。プラトンの「国家論」にいう、デマゴーグに左右される「衆愚政治」に移っていった結果である。
皆が集まってそれぞれ意見を述べ、協議し、答えを出すー耳に障りよくまた本来あるべき像として否むことはできないだろう。
しかし、それゆえに「会議」の結果は成員(あるいはそれが代表する人々)の総意として示され、社会全体に通用するものとされ、「共認」されたものとして異を唱えられない事項となる。
ここに、民主主義=「会議」の陥穽がある。ナチスの政権獲得は「国会」における多数議席の獲得であり、そこでの決定事項が国民の総意とされたからである。今年の「郵政改革」問題を旗印にした「衆議院解散→総選挙」がそのことを如実に示している。「国民は自民党を支持しているのだ」と「国権の最高機関」である国会を通じ、「国民の総意」としてその政策を強行できるような自体を生んだのはまさに、民主主義=「会議」=その決定は国民の総意 とすることから出てきている。
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