仲間とこの「共認充足か?自我充足か?」のお題の答え板を読んでいて、「共認充足っていうのは実体験としてもよくわかる。けど、自我充足って何?」という話になりました。
共認充足は、期待と応合の充足。相手のよろこび=自分のよろこび。相手(みんな)との同化によって得られる充足。
親子でも男女でも仲間でも、人間関係における充足はたいてい、共認充足であろうと思われます。
では自我充足は?
自我充足してる具体例といえば、「悪口で盛り上がってる同僚仲間」とか「傍観者として安全域から、批判・否定攻撃ばかりしてる人」とかいうのが思いつきます。
こんな状態って、充足してるんだろうか?「充たされた」感じするだろうか?
…なんか、無理やりな活力は出てそうな気もするけど、「充たされそう」な感じはしない。不全をごまかして、発散して少しはすっきりしそうだけど、それは充足とはちょっと違うような気がする。やっぱり、共認充足が得られないがための、(アタマの中で都合よく思い込んだ)代償充足でしかなさそう。
ん?ちょっと待って。
「悪口で盛り上がる」って、その「悪口言い合ってる」人たちの間には「悪口を言う」という課題があって、それを共認して、期待応合しあってるから、それって内容は「他者否定・自己正当化」なんだけど、その充足の仕方は共認充足なんじゃないの?
…っていう意見が出ました。
う〜ん。たしかに、「あの人ココが特にヤダ!」「そうそう!キモイ!」「だよねぇ」とかいうのは、「わかりあえた充足」のような気もするんだけど、何か違うような。。。
そこにはたぶん、「相手発」「対象への同化」の視点はないんじゃないでしょうか。(だって、肯定視出来なきゃ、同化も出来ないだろうから)
その「悪口」は、「みんな」には当然共認されるはずがない、というのは「悪口」を言ってる当人たちもわかってて、その現実から逃れたくてor捨象したくてor否定したくて、「悪口集団」を形成してる。だからその「悪口集団」は、常に内向きの、現実から逃避した「幻想空間」でしかない。
そこでは何をやってもたぶん、「相手のよろこび=自分のよろこび」とする、相手(対象)への同化が大事な共認回路ではなく「自己正当化」の自我回路を使うことになるんだと思います。
つまり、この人たちは「わかりあえた」から充足してるんじゃなくて、「自分のいうことを認めてくれた」から充足してるのではないでしょうか?
現実に適応出来た充足ではなくて、適応出来ない現実を捨象し否定して得られる、偽の充足。
>とりわけ評価共認は、期待・応合回路上の各所に「与えられない期待や評価」に対する欠乏の塊を生み出し、その不全感を捨象すべく(実現論で述べた−捨象+収束のドーパミン快感回路を使って)他者否定と自己陶酔を目的とする自我回路を形成して終います。この自我回路が生み出すのは、全て「現実には与えられない期待や評価」の代替充足物であり、従って全てが実在しない幻想です。(2239)
実在しない幻想に充足を求めても、それは本当に求めてる充足ではありえず、充足できない不全から逃れるためにますます幻想は肥大化する。
この自我充足の話、みんなで話せば話すほど、自我で充足してる状態というのはやっぱり幻想だと思えてきて、「自我充足って何?ホントに充足しないの?…とか考えてるよりも、どうやったらもっと共認充足出来るかを追求したほうが、よっぽど元気でるよね」って結論になったのでした。 |
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