狩猟民族の社会構造を知る一つの資料として
極北につい最近まで純粋な狩猟部族として存在した8000年以上の歴史をもつエスキモーの社会について調べてみました。
歴史)
エスキモーの先史は5万年前のアジアとアメリカ大陸の間にあった陸橋の時期に遡る。5万年前〜1万5千年前までの間に大陸間を渡って到達した蒙古系のモンゴロイドであり、大陸が切り離される直前まで繋がっていたアジアに最も近い民族である。
現在はアラスカ中心に生存しているが、盛時には東はグリーンランドまで、西はアリューシャン列島までに広がった。
エスキモー文化に黄金時代があるとしたら、紀元前1000年の頃であろう。この時代は芸術的な表現や技術的な革新において輝かしい創造があり、さまざまな動物をとるための技術や道具の完成、そして著しい人口増加が認められる。目まぐるしい文化的な変化が起こり、技術的な革新が次々と現れてきたその時代の後、西部極東地方のアラスカと北東アジアには協調を基調とした時代が訪れた。ツンドラで生き抜く方法、超自然との対応の方法を身につけたアラスカのエスキモーはこの時代になると集団と集団の関係を調整することにその創造力を向け、関心がそれまでの生業や宗教よりも戦争や交易に向けられてきたのである。その後、気候の寒冷化から1500年頃から規模を縮小し始め、ヨーロッパから発見される頃には7万5千人まで縮小していた。その後300年の間に移民者からの伝染病が蔓延し現在はその数をさらに激減させている。
エスキモー社会の特徴は地理的に広く分布している事ときわめて少ない食料事情、季節によって移動しながら生きていく定住しない数少ない民族の一つであり典型的な狩猟民族であるという点である。
エスキモーの集団について)
もともとエスキモーは互いに離れ離れに小さな集落に分散して住んでいた。大きな集落には800人も住んでいた場合もあるが、ほとんどは10人から50人程度の規模で家屋は一軒から5〜6軒ぐらいの小さな集団であった。しかし隣の集団とは何十キロもはなれているので、どんな大きな集落でも広大なツンドラの上の小さな点にすぎなかった。
集団の特徴はそのほとんどが親族関係にあったこと。社会生活全般は比較的簡素であったが、家族関係は複雑でときに50人の集落の全員が一つの大家族である場合もあった。集落としては小さいが一つの家族としては大きいと言わなければならない。
しかし、エスキモーの社会は核家族を基本単位とした拡大家族であると言える。拡大家族とは夫婦とその子供のほかに夫婦の兄弟や従兄弟、その配偶者、祖父母などが同じ屋根の下に住む。
一つの屋根に住む多くの縁者が同居家族と同じ様な感覚で関係していた。従兄弟同士は兄弟と呼び合い、叔父やおばが甥や姪を自分の子供と同じように扱っていた。
年よりは豊富な知恵や、しきたりやタブーに関する知識の持ち主として、そして昔話の語り手として尊重され、年を重ねるにつれて、敬愛と尊敬の念をこめて大事にされていた。また子供を大事にするエスキモー社会では子供達は社会の継承者として扱われた。
一般的に20人〜30人からなるエスキモーの家族は比較的安定した状態にあったことはよきリーダーがいたことと家族内のヒエラルキー機構が成員に共有されていた事にある。家族内のヒエラルキーは権力とは異なり、家長は日常会話の中では目立たぬように表現された。猟に出ることをなにげなく「アザラシ肉が少なくなっているようだ」と表現したり、水が必要な時に「ノドが乾いた」と表現する。しかし、家長のその言葉は厳格で、息子達は逆らうことはできない。
エスキモー社会は家族においてそのような関係がある他は集団間は原則として平等社会であった。また豊富な知識を持ち、優れた能力をそなえた人物が尊重され、集団全体にも影響をおよぼしていた。有能な家長のまわりには多くの人が集まり時にカリスマ存在として集団間を統合した。
人望のあるリーダーは有能なハンターであることの他に人間関係に敏感でありそれをよく把握する力が要求されている。家族内のあつれきや緊張をいち早く見通して、問題が起こりそうに成ればその仲裁に入るのも家長の条件であった。それができない家長は狩猟において間違った判断をくりかえすリーダーと同様にたちまち親族に見限られた。
〜エスキモーの民族誌(アーネスト・s・バーチン著)より抜粋
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