> 明治政府は、封建領主ですらしなかったような、まさに掠奪的地租を賦課して農村を荒廃に導いたのである。それは予定されたことで、いわゆる資本の原始蓄積、産業の資本造出のための手段であることは明らかであった。かくして土地を奪われた農民は都市へ流出し、産業資本のために安価な労働力を提供する貧民として定着する。< 2796
明治政府は、欧米列強の外圧に対抗するために、富国強兵を打ち出しましたが、その財源確保のために、かなり強引な税制改正をしました。
> 1873(明治6)年7月、地租改正令が、政府の財政収入の確保を目的にして交公布されました。
その内容は、
(1)課税の基準は、従来の収穫高に代わって地価が用いられ、税率は100分の3とされました。(明治10年から税率は100分の2.5に引き下げられました。)
(2)耕作者でなく、土地所有者(地主)から徴収されました。
(3)物納から金納に代わりました。 <
「平成16年度版“わたしたちの生活と税金”第4章租税の歴史」より
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課税の基準を地価にすることによって、政府としては税収を安定させることができますが、農民にとっては不作の年ほど実質的な税率が高くなることになります。土地所有者(地主)が納税の主体となったことにより、より少ない小作人で農地を耕作させ、採算効率を追求したであろうことも、容易に想像がつきます。
また、現在と違って明治時代は農民が人口の85%を占めていては、米を換金することもできず、金納のために出稼ぎに行くことを強要されたようなものです。
口減らしのための身売り、女工哀史の世界などは、まさに明治時代の政策が生み出したもので、村落共同体を解体し、夜這い婚を崩壊させ、「農民は貧しい」というのが常識になったのも、明治の税制改革が原因だと言えます。
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