縄文時代の特徴の一つとしてこの掲示板ではこれまで扱ってきませんでしたが縄文中期における関東地方の大集落の散在という現象があります。
三内丸山で部族連合で縄文中期に人口増が認められた東北地方は縄文中期には小山修三氏の遺跡から算出した資料にでは人口46700人(人口密度0.7人/平方キロ)となっています。それに対して同時期、関東地方では95400人(人工密度2.98人/平方キロ)とおおよそ4倍の人口を抱えます。
〜参考投稿15930
この関東地方の急激な人口増の要因は気候の問題やそれに起因する海進、海退に伴なう地形の変化等、さらに食糧事情の好転等複数の要因が考えらるが、単に気候的要因だけではない、何らかの生産様式に関与する変化が起きている事を暗示していると思われる。
>この時代、関東平野では千葉、東京、神奈川といった海浜地帯から直径100m〜200mの大型貝塚が確認されている。貝塚は縄文時代通してこの地域には存在するが、それまでの規模が住居跡と並存する小型なものに対してこの期間に極端に大型化する。
千葉県加曾利貝塚の保存調査によって明らかになったのはこの時代の大型貝塚が明らかにそれまでの貝塚と目的性が異なるという事。
それまでは貝塚は生活の残滓としてのゴミ捨て場であり、大型のそれは祭祀場、あるいは何らかの生産の為の施設であるという点である。
大型貝塚を取り囲むように多くの居住跡が確認され、居住跡は何世代も移行していく中で転々と遺跡が移動していくのに対して貝塚は固定的であり、縄文中期〜後期にかけてのおよそ1000年の間、集落の要として機能してきた事を物語っている。
加曾利貝塚を初めとしてこの時代の貝塚に共通する事がある。
直径2〜3mの大型の焚き火跡が中央にあること、焚き火の周りに煮沸用の土器が多数排出されていること。その周りに貝殻の堆積があり、その中には貝殻が閉じたままのものも確認されている。この事をもって大量の貝を土器で煮て大量の保存食=干貝を生産していたのではないかと推察されている。干貝の生産は塩の代わりとして機能していた。すなわち、大量に採取した貝類をいったん土器で煮て海水に含まれたバクテリアを殺し、たんぱく質を凝固させ水分を抜き、口の開いた殻から身だけを取り出して天日に干して「干貝」として加工する。その干貝こそ当時の貴重な保存食料として珍重されていたのである。その干貝は1年中とれる沿岸地域の集落において、ただ単に冬の食料対策として機能するためだけにあったとは考えられない。
大型貝塚は後期末から晩期初頭にかけて姿を消した。そして同じ時期、茨城霞ヶ浦沿岸で土器による製塩がなされていることが確認されている。塩はさまざまな食料の保存剤として重宝されたのは容易に想像できる。
(以上 森 浩一著「縄文・弥生の生活」より抜粋)
干貝の生産と塩の発明、森氏が提示したように単に食糧事情が好転したという事だけではなく、加工食品としての商品として交換価値を作り出したという事ではないかと思われる。関東の縄文遺跡ではこの地域では確保できない土器の土や石材らが確認されている。縄文ネットワークとしての交換経済の活性化は三内丸山に限らずこの時代、同時的に起きていたと思われる。そしてそれらが、狩猟採取という森林地帯から海浜地帯へ居住域を拡大できた最大要因の一つではないだろうか?
また、この事は同時に縄文採取生産が自己完結の地域密着型ではなく、中期あたりから交換経済を基本にした豊かなネットワークを構築していた事を伺わせる。そこでは同類圧力発の贈与関係から一歩出た縄文時代の有り方も提起できるのではないだろうか?
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