国家の支配構造と私権原理
335080 イエズス会は日本で何をしてきたか
 
北村浩司 ( 壮年 広報 ) 18/04/24 AM01 【印刷用へ
○日本人の奴隷貿易
1587年九州平定過程にあった秀吉は、 イエズス会の日本のトップである、ガスパル・コエリョに、イエズス会の日本での行為について詰問している。
 「予は商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。」(ルイス・フロイス「日本史4」)
当時キリスト教は教義で奴隷を公認しており、イエズス会は商船の奴隷貿易に関する許認可権をもっていた。コエリョ自身がポルトガル商人に代わって日本人奴隷売買契約書に署名した記録もある。日本人奴隷貿易は15世紀後半には16世紀の後半には、ポルトガル本国やアメリカ、メキシコ、南米アルゼンチンにまで及んでいた。
『東洋ポルトガル古記録』には「ゴアにはポルトガル人の数より日本奴隷の数の方がより多い」「日本人奴隷は男よりも女が好まれた。行き先はゴアを中心とする東南アジアだが、ポルトガル本国にも相当数入っている」と記されている。 ローマに派遣された少年使節団も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれているのを目撃して驚愕している。
彼らは大村、小西らキリシタン大名らにより捕虜とされたもの達や仲介商人によるものである。奴隷売買と引き換えに当時日本では希少価値であった硝石と交換され、硝石一樽と日本人女性50人が交換されたという記録もある。当時の日本人の奴隷売買は人口1200万に対し2万人から4万人余と推定される。
 
○寺社の破壊と僧侶の殺害
秀吉は同じくイエズス会のコエリョに「キリシタンは、いかなる理由に基づき、神や仏の寺院を破壊し、その像を焼き、その他これに類した冒涜を働くのか」と詰問する。
秀吉は農村秩序の核になっている寺社の破棄を、かなり重く見ていた。
実際特に九州では寺社破壊は凄まじく、例えば大村領では神社仏閣が破壊され、その結果6万人以上のキリスト教信者が生まれ、87の教会ができたという。寺社破壊はキリシタン大名の統治する地域で日本各地に及んだ。キリシタン大名であった高山右近は大阪の高槻城主であった時に、普門寺、本山寺、広智寺、神峯山寺、金龍寺、霊山寺、忍頂寺、春日神社、八幡大神宮、濃味神社といった大寺社を焼き討ちにより破壊したといわれている。イエズス会のコエリョをはじめ当時の宣教師の多くは仏像や仏教施設の破壊にきわめて熱心であり、九州では信者を教唆して神社仏閣破壊させたことをフロイス自身が書いている。

○島原の乱の真相
キリシタンの悲劇として描かれている最大のものが1637年の『島原の乱』である。教科書からは島原・天草地方のキリシタン弾圧が酷く、重税を課したことから農民たちが圧政に立ちあがったと読める。しかし事実はかなり異なっている。
当時の反乱勢は3万7千人、篭城戦時では幕府軍は12万以上で圧倒的な差がありながら制圧に半年を費やしている。しかも緒戦においては板倉重昌率いる幕府軍4万人は惨敗。一揆勢の死傷者が僅かに7名なのに対し、幕府軍の死傷者は4千名にのぼった。しかも板倉は討ち死にしている。
これは、反乱勢が大量の武器弾薬を保有していたからにほかならない。では、彼らが大量の鉄砲などを保有していただけではなく、その使い方にも習熟していたのは何故なのか。

まず、一揆勢の中心が百姓ではなく、キリシタン大名だった有馬や小西の残党だったことである。有馬と小西は関が原の合戦において西軍側につき、他国に移封される。『天草征伐記』と『徳川実記』等の記述にも、キリシタン大名であった小西行長の遺臣が中心になって、それに有馬の旧臣も加わって、困窮した農民を糾合して蹶起したとある。
しかもただの「農民」とは思えない行動が目立つ。一揆勢の行動で目に付くのは寺社への放火や僧侶の殺害である。有馬村では村民らが、所々の寺社を焼き払ってキリシタンに戻ると宣言し、これに周辺八ヵ村の村民らが同調して寺社に火を点け、キリシタンにならない村民の家には火をかけている。さらに島原城の城下町でも江東寺、桜井寺に放火している(『別当利杢左衛門覚書』)また彼らは、代官の林兵左衛門を切り捨てた後、村々へ廻状を廻し、代官や『出家』『社人』(下級神官)らをことごとく打ち殺すように伝達した為に、僧侶、下級神官や『いきがかりの旅人』までが殺されたという(『佐野弥七左衛門覚書』)。

その後彼らは、九州諸藩の討伐軍の接近を知って島原半島に移動し、島原の旧主有馬家の居城で廃城となっていた原城に籠城する。島原と天草の一揆勢が合流し、大量の鉄砲と弾薬を保有してこの場所に立て籠もったのである。彼らが原城に籠城したのはポルトガルなどの外国勢力の支援を期待していた可能性があり、少なくとも幕府はポルトガル等の支援を警戒していた。それには理由がある。
ポルトガルやスペインには明と朝鮮を日本の傭兵を使って占領する計画があった。その際幕府と対立することは確実で、九州のキリシタン大名を幕府から離反させる計画であった。
そのためには長崎周辺を軍事拠点化する必要がある。クルスがイエズス会に宛てた書翰によれば、 九州が日本から離反する際には、キリシタン大名達がポルトガル人に基地を提供することは確実で、特に小西行長が志岐港を差出すことを確実視している。キリシタン大名たちとの間で計画は相当詰められていたようだ。
更にフランシスコ会の宣教師の本国への報告によれば「有馬や長崎は1590年には軍事要塞工事が行われており、イエズス会の宣教師達は、長崎近辺に有している村落のキリスト教徒たち全員に、三万名の火縄銃兵を整えた」とある。イエズス会は来たるべき戦いの為に、多くの武器弾薬を準備し、長崎近隣の信徒達に火縄銃の訓練をさせていたのだ。乱の中心勢力は小西行長や有馬の家臣である。スペイン・ポルトガルの影を幕府が想定したのは不思議ではない。

この3万挺の銃などの大量の武器の押収記録はない。大量の武器は島原、天草、ポルトガル船などに分散して隠され、訓練は江戸時代に入ってからも密かに続けられていた可能性が高い。そう考えないと、島原の乱における単なる百姓一揆とは思えない軍事行動や、大量の武器の調達や島原藩や唐津藩などの正規軍を一時圧倒したことの説明は困難だろう。

参考:しばやんの日々等
 
 
 
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