日本人と縄文体質
309731 なぜ中世の武士は源平に収斂したのか
 
田野健 HP ( 55 設計業 ) 15/11/28 AM01 【印刷用へ
武士と言えば源氏、平氏が双璧で相並ぶ。なぜ中世の武士は源平に収斂したのか、武士の起源と源平はどう関係するのか、そもそも源平とはどういう一派なのか?判らない事だらけであるが、諸説もあり、ネットからでは中々有効な記事が見当たらない。
著書「武士の成長と院政」の中から推論を重ね、自論として展開して置きます。

■奈良平安時代の中央集権制の機能不全
9世紀に入ると奈良時代から平安時代にかけて維持してきた中央集権制が緩み始める。それまでは各地に国司を置き、人頭税で庶民からの税を管理していたが、やがて荘園制が出来、さらに平安時代に入ると国家直営の国司から地方派遣官の受領という体制に代わる。受領は時々の有力者が都から派遣されて地方に赴任するが、旨みは中央に納める税は一定額でそれ以上取り上げた受領は私服を肥やすことができる。個人の私権性を利用した間接統治が始まったのである。
これによって中央集権の仕組みはガタガタになり、併せて地方に飛んだ受領もその力量の不足から度々庶民との軋轢をおこし、反乱に合い地方の治安が危うくなった。各地に盗賊蜂起が発生する。

最初に発生したのが坂東の地。それまで馬に荷物を運ばせて運送料を稼いでいた富豪層が国政改革によってその利潤機会が奪われると、たちまち食えなくなり、彼らが真っ先に盗賊に転換する。坂東の地は数多くの通商の人々が通行する要所故にそれらが中央の税収上、大きな問題になっていく。

■俘囚という東国武人を集合させた制度
一方、都では平安初期に東国を攻め、9世紀初頭までに東北地方各地に城址を築く。それまで東国を運営していた高句麗人+縄文人の土着集団を解体する目的で、武術を有する蝦夷の民を都に連れ帰り組織化した。それが俘囚制度である。彼らがその後に国家の常備軍として戦地に送られるが、平時には京で武術を教える人材となる。

■天皇の私営軍として組織化された源氏と平氏
奈良から京に遷都し百済系渡来民で立ち上げた桓武は自らの軍隊を持つ事が喫緊の課題であった。桓武平氏はそういった環境下で登場し、桓武の子息や場合によっては協力する氏族に平という氏を与え、軍事組織化を図る。後の源氏も村上天皇が同様に組織化した一派であった。
仕えた天皇の系統から平氏はどちらかといえば百済系、源氏はおそらくは縄文土着系又は百済系とは別系統の渡来人氏族だった可能性がある。
彼ら平氏、源氏は天皇が代わるたびに上下関係が逆転し、最初は平氏が上であったが、平安時代を通じて源氏が上位を取るようになる。これは源氏、平氏の力関係ではなく双方が依拠した天皇の系統によった。
いずれにしても所詮は天皇の護衛組織である彼らは貴族の中でも当然最も位が低く、常に自らの位置を高める動きを狙っていた。
源氏、平氏に武術を与えたのは東北地方の武人=俘囚であった。
従って源氏、平氏のその後の戦いに兵(つわもの)としての力や戦いの力学があったのは、馬術に長けた蝦夷のそれであった。

■真っ先に坂東で武士として頭角を現した平氏
坂東で盗賊蜂起による混乱が発生すると、手柄によって位を上げたがっていた平氏達は進んでその鎮圧に動いた。平氏は武力で混乱を制するとそのままその地の受領として定着する。武士第一号が平高望で、彼は坂東の地で英雄になっていく。
その後高望率いる平家一族が別れて坂東の地で分割統治する。これが坂東武士の起源である。

■平将門の乱
平氏が坂東を納めるようになって暫くして935年、平将門が朝廷に反旗を翻して独立国家を打ち立てる。この乱は、おそらく天皇とそれに仕える源氏によって京での位置を追われた平家が起こした武力運動だったのだと思う。将門はたちまち、坂東の英雄として祀り上げられるが、源氏の追っ手によってすぐさま首を取られ、坂東の地に源氏勢力が入り込むようになる。坂東はその後鎌倉幕府ができるまで源氏が着々と基盤を作っていく。
平氏の坂東運営が武士間の連合、共同体的であったのに対して源氏の運営は支配的、制度的なものであった。

■鎌倉幕府成立まで
平氏は桓武平氏と伊勢平氏に大きく分かれるが、前者は坂東に向かい、後者は将門の乱で坂東進出を諦めた一派でその後、その持ち前の海洋技術を駆使して瀬戸内海〜中国大陸へと拠点を移していく。平清盛に全盛期を迎えるが、平氏組織はそれまでの武力重視から経済重視、貿易、商業重視に移行していき、平安後期には経済力で国家を上回るようになる。

源氏は相変わらず天皇の手先として機能するが、上皇が強権を発動し源氏の軍事を権力で支配しようとすると源氏側がクーデターを起こす。
源平の争い以上に天皇初めとする貴族社会と武士の争いが激しくなったのが平安末期であった。源氏もまた平氏同様に天皇に反旗を翻して鎌倉に自前の国家を打ち立てた。

■鎌倉以降
以降は源氏ー平氏の末裔が相互に政権に関わるようになる。
源頼朝によって立ち上がった鎌倉幕府だが、平氏の一派であった北条家がすぐさま頭を取り返す。以後は一見武力と武力の争いの社会に移行したようになるが、鎌倉時代は最も平安な時代だったと言われている。
またこの時代に天皇ー貴族中心の完全な特建階級的中央集権体制が武士の社会に変わることによって崩れていったのは確かな事であった。

武士の為政とは時に平家の最初の国づくりがそうであったように大衆を一方的に上から支配するのではなく”守る”為に存在するという本来の存在意義は時代の時々で登場した。それは彼らの成り立ちが底辺から成り上がっていった事と何らかの関係があるのかもしれない。
 
 
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