日本人と縄文体質
306362 大和朝廷の誕生から明治維新まで〜不比等を百済系として組み立てなおす
 
田野健 HP ( 54 設計業 ) 15/07/27 AM00 【印刷用へ
※これまでの日本史の解説の中で1点大きな誤りあった。蘇我氏を百済系とし、藤原不比等を伽耶系とした所である。これで歴史が見えなくなっていた。今回、蘇我氏を高句麗人、不比等を百済人として組み立てなおした。以下がそのストーリーである。この方が現在に繋がってくる。
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大和朝廷が誕生する前夜には日本列島には江南系、伽耶系と高句麗系が入り込んでいた。また前200年に渡来した徐福系(江南系)も畿内を中心に各地に配置されていた。しかし渡来人はまだ少数で、土着の縄文人と混血し、江南人⇒弥生人、伽耶系⇒倭人、高句麗系⇒縄麗人(造語)が混在していた。
2世紀後半に出雲を高句麗系が支配し、それまで出雲に居た土着江南系を排除。江南系はそのまま畿内に移動する。畿内は既に徐福系の末裔である葛城が牛耳っていたが江南系故に馴染み合流する。

一方、伽耶系出自の物部氏は鉄のルートを持っており、高句麗系が前方後方墳で勢力を拡大するとそれと対抗するように前方後円墳を中国地方を中心に作っていく。
この前方後円墳のネットワークに加わったのが畿内にいた徐福系葛城である。3世紀に巻向に古墳を築造してしばらくは高句麗と対立する。高句麗系は中部地方、関東に拠点を移し、関東に「日本国」を建立しにらみ合いが続く。しかし、6世紀に大陸からの外圧が高まると高句麗の高官である蘇我氏を取り込み、それまで対立していた伽耶―高句麗―江南系が一つになった。蘇我氏を登用したのは徐福系の葛城だが、それに異を唱えた物部系と対立、物部―蘇我氏の対立から蘇我氏は物部を排除する。

一方6世紀後半から本国の敗走により続々と渡来する百済人が大和朝廷に合流するが、上で管理する蘇我氏が邪魔として、クーデターを起こす。蘇我氏暗殺である。
以降は百済系の天智―藤原(鎌足)が政権を取る。百済奪還を試みるが、敢え無く敗北。そこに滅亡した国、百済の高官不比等が渡来する。不比等は藤原鎌足の息子と成り代わり、持統天皇の元、太政大臣に昇格。その後の日本の律令を定めていく。ただし、不比等は渡来して百済の後ろ盾がなく、止むを得ず土着伽耶系の豪族と手を組む。奈良時代とは百済系不比等と伽耶系豪族の連合政権であった。奈良時代に勃発した権力闘争は、百済系対伽耶系での主導権争いで、そういう意味では奈良時代は百済系の純粋王朝ではなかった。不比等が最も消したかったのは蘇我が立ち上げた高句麗系の日本の律令史であり、自らの百済の出自だった。不比等の系譜を日本古来から存在する藤原に仕立てたのだ。日本書紀、古事記はその為の歴史書として編纂され、日本の捏造史と併せて百済、伽耶が都合よく書かれた。

平安遷都は桓武天皇によってなされるが、それまで伽耶系が混在する奈良から決別する目的もあった。従って桓武天皇は平安朝になるや否や、百済系で周りを固め、唐風文化を極端に推進する。平安時代は桓武―嵯峨天皇の後再び藤原家が摂関政治として中心になるが、藤原家が試みたのは唐風ではなく日本風だった。平安貴族200年の間に文学が発展し、日本独自の文化が生まれたのは、藤原の意図と重なる部分があったのではないか。
平安時代は後期に武士の時代に突入する。武士の中核をなしたのは高句麗の末裔たちだ。
馬を操り、戦争にも強かった高句麗系を取り込むのは朝廷の積年の課題だった。

平氏、源氏といった最下層の貴族たちが武士の管理に借り出されるが、百済系に仕えた平氏がその海洋民としての力で一時期財を成すが、都落ちし関東に基盤を作った源氏に後世に滅ぼされる。源氏は高句麗系の坂東武士をまとめる事で鎌倉幕府を立てる。
以降、鎌倉は高句麗系武士と伽耶系源氏といった相性のよい関係から、平安時代の律令に対し、民衆の自治を重視する大衆政治が行われる。仏教が大衆に広がり、惣村も立ち上がる。言わば百済系律令からの脱却の時代だった。
室町は源氏系の新田、足利がその大衆自治路線をそのまま京へ持ち込んだ。百済系はこの時点で完全に水面下に下る。南北朝戦争はそこからの逆転を狙った南朝(百済系)の謀略だった。

このように天皇家は長らく百済系が握り、一方で幕府、武士階級は伽耶系、高句麗系が担っていた。戦国時代には尾張の武将、信長、秀吉が台頭するが、彼らもまた土着伽耶系或いは高句麗系の由来だったと思われる。キリシタンを再三にわたって排除した事や、天下統一を争いをなくす為に果たそうとした信長の意思は大和朝廷のそれと似通っている。

さらにそれを推し進めたのが家康である。鎌倉幕府同様、日本の東を押さえたことで安定政権を取る。大衆自治を推進した家康もまた高句麗系由来の武将だった可能性が高い。
日本はこのように武家社会が高句麗系(伽耶系)で固められ、一方で天皇、公家が百済系で固められた。明治維新はその構図を逆転する為に起こした百済天皇家のクーデターである。
金貸しがその構図に気が付き、そそのかしたのである。明治―昭和とそれまで単なるお飾りにすぎなかった天皇が主権を担うようになる。日本の事などどうでもよい連中が主権を取ったのである。結果は火を見るより明らかだった。明治が日本社会の崩壊期の始まりであり、平成になった現在でもその系譜は途絶えていない。
 
 
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