日本人と縄文体質
258847 ブータンの民と日本人というのは、遠い遠い親戚なのではないか@
 
新聞会 11/11/20 PM02 【印刷用へ
ブータン国王が来日されました。ブータンといえば、国民総幸福量トップでも有名になりましたが、たいへんな親日国としても知られています。なぜブータンが親日国となったのか。そこには、ひとりの日本人の貢献がありました。その逸話を紹介します。

ねずきちの ひとりごとリンクより転載します。
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昭和33(1958)年のことです。
大阪府立大学農学部に、ある依頼がありました。
「ブータンに、日本の農業専門家を派遣してほしい」というのです。

ブータンは、インドと中国にはさまれた世界唯一のチベット仏教国家です。

国民総生産にかわる国民総幸福量(GNH)という概念や、さまざまな環境政策、伝統文化保持のための民族衣装着用など、非常に特色のある国でもあります。

国旗のデザインが、これまた難しい。

要するにブータンという国は、ある意味、非常に閉鎖的に伝統を重視する国家なのであって、そういうところで民衆に溶け込んで、農業指導をする。

これはたいへんな仕事です。

ブータン王国で農業指導をするためには、ブータンの人々の生活の中に溶けこみ、「あの人のいうことなら間違いない」という人としての信頼を勝ち得ないといけないのです。
ただ頭ごなしに技術を「教えてやる」方式では、絶対にうまくいかない。

ブータンの首相から直接依頼を受けた同大学の中尾佐助助教授は、たいへんな依頼を請けたと思うとともに、「あの男なら!」と、すぐにピンとくる者がいました。
それが、同学部の学生であった「西岡京治」(当時25歳)です。

性格が、穏やか。しかも謙虚。友誼に篤く誠実で努力家。
根気と忍耐が予想されるブータンでの生活に最適な男は、西岡京治しかいない!

中尾助教授は、すぐに西岡京治に相談をもちかけます。
もちかけられた西岡京治は、同じ年にネパール学術探検隊に参加しています。

彼には、ヒマラヤの自然の美しさと、そこに住む人々の貧しさを見て、自分が彼らの生活をよくすることに少しでも貢献できたら・・・という思いがあった。
彼は二つ返事でブータン行きを承諾します。

昭和39(1964)年2月、海外技術協力事業団(現・国際協力事業団)から、西岡に、正式な派遣決定の通知が届きます。
西岡は、新妻の里子を伴って、その年の4月に、ブータンに飛びます。

昔からそうなのですが、こうした海外協力隊では、たいていの場合、妻は日本に残して、単身で旅立つ者が多いです。
最初から西岡が、妻を伴ったということは、彼自身に、妻を愛する心と、ブータンに骨をうずめる覚悟があった、ということです。

ブータンに到着した西岡は、さっそく開発庁農業局の事務所に出向きます。
農業局は、局長も職員もすべてインド政府から派遣されたインド人です。

彼らは、自分たちこそがブータンの農業事情を一番知っている、ブータンの農民は遅れていて因習深く、何を言っても始まらないと、ハナから西岡をとりあいません。
実際にブータンの農民と接して農業指導を行うにも、その許可さえくれない。

西岡は、めげそうになる心を振り絞って、政府に働きかけ、ようやく農業試験場内で、60坪ほどの土地を提供してもらいます。

そこは、ひどく水はけの悪い土地でした。
これでは野菜の栽培すら難しい。
要するに「やれるものなら、やってみろ」というわけです。

西岡が派遣された目的は、農業指導です。
荒れ地で、ひとりで栽培をしても、それでは意味がない。

それでも西岡は、そこでなんとか頑張ろうと、農業局にブータン人の実習生を要求します。
ようやく許可が出て、西岡に実習生がつけられた。
その実習生は、なんと12〜3歳の子供が3人!

ここまでされたら、ふつう、怒るかあきらめるかします。
事実、いろいろな国から派遣された指導員は、それで怒って帰国している。

ところが西岡は、笑顔で少年たちと土を耕し、樹木を抜き、水利を図って、日本から持ち込んだ大根の栽培を開始します。
畑の耕し方、種の蒔き方、土のかけ方、ひとつひとつを西岡は少年たちに実演し、一緒になって大根を育てた。

大根というのは、昼夜の寒暖差が大きいほど、おいしく、よく育ちます。
3ヶ月後、それまでみたこともないような、おおきな大根が育ちます。

実った大根を抱えて見せた子供たちの笑顔が、たまらなく美しかった。
野菜の栽培は、到底無理、と思われる荒れ地で、西岡は見事に野菜の栽培に成功してみせたのです。

西岡の成功を喜んだブータン政府は、翌年、試験農場を水はけのよい高台に移してくれます。
農業局ではなく、もっと上が動いてくれたのです。耕作地面積も、3倍です。

水利がよければ、野菜はますます育ちます。
西岡の農場は、狭いけれど、青々とした野菜が見事に育った。

噂が噂を呼びます。
ブータンの知事や議員たちも、西岡の試験農場に視察に来ます。

感動したある議員の提案で、西岡は、ブータン国会議事堂前で、試験場で栽培した野菜を展示します。
これが、大評判となります。
みたこともないほど肥えた野菜です。しかもおいしい。みずみずしい。
噂が噂を呼び、ついには国王陛下から、もっと広い農場用地を提供するという申し出をいただきます。

後に西岡は、このときの模様を「ブータンに来て、これほど嬉しいことはなかった」と語っています。

国王から提供された農場は「バロ農場」と名付けられます。
「バロ」というのは地名で、ここには、ブータンに仏教を伝えたパドマサンババが空飛ぶ虎の背から降りてきたという伝説が残っているところです。

いまでもこの地では、毎年三月に、一年の豊作を願って、人々が様々な民族衣装や動物や鬼などの仮面をつけて、太鼓や管楽器による民族音楽に乗って歌ったり踊ったりします。

国王は、そういう由緒ある地を、西岡のために提供してくれたのです。
ただし、ここは標高2200メートルの高地です。

そして西岡のバロ農場は、その後のブータンの農業近代化を一気に加速することになる。
まさに、空飛ぶ虎の背(飛行機)から降りてきたバドマサンババ(西岡)が、ブータンの人々の生活を一変させる事業が行われることになります。
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続く
 
 
 
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